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山田岳ギターリサイタルを聴いて

 
五月六日、福岡市内にあるリノベーションミュージアム冷泉荘にて
関東在住のギタリスト山田岳によるギターリサイタルが行なわれ足を運んだ。
 
 
山田さんは1981年のお生まれだから私とは十違い。
日本における現代音楽演奏のホープとして注目されている。
今日のプログラムは20~30代の若手作曲家たちの新作で固められ、
そのためか全体として聴き終えたときの後味もさわやかであった。
 
 
特筆すべきは山田さんの(演奏も非演奏も含めて)パフォーマンス&身体能力の
高さである。クラシックとエレクトリックを使い分けながらも、発音の九割以上が
いわゆる「特殊奏法」であり、楽器以外にも声、ギターケース、ペットボトル、
携帯電話その他を駆使するさまは、コンサートというよりも
「アート・パフォーマンス」
であり
「音の実験室」
といった感じであった。
 
 
こういったタイプのコンサートはいままで何度か体験してきたが、個々の作品について
「わかる・わからない」などということは考えない方がよい。
とにかく音を「体験する」ことが大事である。
その体験は自分のからだの中に残る。
そしてあるとき(三年後か五年後かに)その体験がふと甦るのである。
それがすごく貴重で大切な事のような気がする。
 
 
ただ今回少しだけ気になった事があるとすれば、山田さんのパフォーマンスの
クオリティの高さに作品の側が依存しすぎていないか、という事。
ふつうは(自分の演奏も含めて)逆に感じる事の方が多い。すなわち作品の
もつクオリティに演奏がついていけてない、と感じる場面の方が、、、。
つまり山田さんのパフォーマンスはそれほど圧倒的だったのだ。
 
 
音が多い。
ほとんどの曲が音の洪水のようである。
それだけの音を作曲者達は本当に必要としているのだろうか?
それとも無自覚のうちにスタイルにハマっているのか?
曲が長い。
その長さは本当にその曲に必要な時間なのか?
会場に居た作曲家の一人に、休憩時間中に聞いてみた。
「作曲において曲の長さはどのように決定されるのか」
答えは誠実だった。
「リサイタルのプログラミング上何分ぐらいと注文を受けたりする事もある。
あとはまあ大体の(一曲分の)相場があるから、それに沿って、、、。」
それは答えとしては誠実かもしれないが、音楽に対して誠実といえるのだろうか、、、。
 
 
あとこれは聞けなかったが、「同じ曲が幾度も演奏される事」と、「一度その曲を聴いた
人がふたたび、みたびその曲を聴こうと望む事」は当然別の事である。
作曲家達はその曲について一過性のものと考えているのか、それともその曲の存在を
この世に定着させたいと願っているのか。
もし定着させたければある特定のプレイヤーの技量に寄りかかっているうちは無理で
ある。大勢の演奏家の演奏に耐えうるしっかりした音世界を譜面に刻む必要がある。
 
 
山田さんは演奏を終えた後の挨拶の中で
「作品に対し、自分はフィルターとして、、、。」
と語った。
たしかにコンサート中、彼は一貫して「作品を光で照らすこと」に集中していた。
演奏家の姿勢としてそれは見事であった。
私も常にそうありたいと願っている。彼の姿勢を手本にしたい。
「自分」でなく「作品」を照らし続ける事で、山田さんはこれからも貴重なミュージシャ
ンであり続けるに違いない。
最後に今回運転手として、ローディーとして、また共演者として広島在住のギタリスト
藤井康生さんのこれまた見事なサポートがあったことも記しておきたい。
 
2013.5.7
 

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“山田岳ギターリサイタルを聴いて” への2件のフィードバック

  1. 次郎 より:

    あなたのブログ私教育だ。

    • ryuji より:

      読んでくださってありがとうございます。
      いつの日かお会いできると嬉しいです。

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