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親愛なる先生(パブロ・マルケス編その3)

当時のパブロ先生の住まいは、パリ市内のアパルトマンの5階だった。
ところが建物が古く、なんとエレベーターが無かった。
たかが5階と思うでしょ?
フランスでは1階の事を「0階」と呼ぶのよ。知ってた?
(困った民族です。ほんとに、、、。)
つまりレッスンの度に実質6階までの階段を上らなければいけない。
ギターその他をかついで、、、。
 
 
そんで先生の部屋の前で呼吸を整えるのに3分を要する。
ドアをノックするとパブロ先生、笑顔でご登場。
必ず最初に聞いてくださる。「何か飲むかい?」
そして私が答える前にすかさず聞いてくださる。「水いいかい?」
(しかもペットボトルではなく先生!それはただの水道水、、、いや、そんな贅沢言うて
はいけないよね、、、でもパリの水道水ってまずいのよ、これが、、、)
でもパブロ先生の屈託ない笑顔を見てると、パリの水もちょっとはイケる、、、、かも。
二人笑顔で向かい合って「水の一気飲み」から、いつもパブロ先生のレッスンは始まるの
だった。
 
 
受けたレッスンは計5回。
F・ソルの小品、ヴェネズエラ・ワルツ2番3番(A・ラウロ)主題、変奏と終曲(M・M・
ポンセ)タンゴ(I・アルベニス)2つのリディア旋法の歌(N・ダンジェロ)涙の賛美
(F・シューベルト/J・K・メルツ)
どの曲に対してもアカデミックなアプローチで、それこそ当時の私が望んでいたものだった。
最後のレッスンの後、一緒に記念撮影をしてもらい、その数日後私は一年間生活したフランス
を後にした。
 
 
帰国した私は、それまで以上に勉強した。
いろいろなミュージシャンに師事し、レッスンを受け、あるときはアドヴァイスを受け、
本を読み、音楽を聴いた。そしてそれは今も続いている。
おそらく一生続くのだろう。
 
 
留学の成果はひとそれぞれだと思う。
学校の演奏家ディプロマを獲得する人。
あちらのコンクールで華々しく優勝する人。
語学をバッチリ習得してくる人。
私はそのいずれも無理であった。
でも私は自分の留学が失敗だったとは微塵も思っていない。
 
私の場合
「今後日本でどのように勉強を続けていけばいいのか」
を一年間のフランス留学で教わった。それを知るためにフランスに居た、そんな気さえする。
そしてパブロ・マルケスから教わった事が、今でも自分の中で“あるひとつの基準”となっ
ているのを感じる。
 
 
 
 
先日(2013年2月9日)パブロ・マルケスのギター・リサイタルが福岡市の九州キリスト教
会館で行われた。
あれから十八年の年月が経っていた。
手伝いスタッフとして会場に居た私を見ても、もちろんパブロは気がつかない。
というか、私のこと自体おそらく記憶に無いに違いない。
それは当然の事として予測していたが、やはり多少さびしかった。
 
 
みじかいリハーサルを終えたパブロに思いきって近づき、たどたどしい英語で話しかけ、
あの写真を見せた。最後のレッスンの後にとったあの写真である。
 
 
彼は思い出してくれた。
単純に嬉しかった。
 
 
 
リサイタルは素晴らしいものとなった。
会場いっぱいに集まったお客さんも、集中が途切れることなく音楽に没頭しているようだ
った。クラシックギターのソロ・コンサートとしては近年稀に見る盛り上がりだった。
 
 
打ち上げでは、今回パブロを日本に招聘したギタリスト樋浦靖晃氏の助けも借りつつ、
多少話が出来た。しかしあまり話をしなくても私には充分幸せな時間だった。彼の演奏は
けっして悪い意味でなく、18年前と少しも変わっていなかった。“より深まった”という
事はできるが、彼が音楽においてやろうとしていることは当時からいささかもブレてはい
ない。その事自体が凄いとは思うが、今現在私が行きたい方向とは違う。
それでも私は充分に幸せだった、、、。
 
 
 
打ち上げ会場を出て、別れ際にパブロと抱擁した。
私が離そうとした瞬間、再びパブロが強く締めた。
私も強く締め返した。
彼と離れた後、その存在は私にとってただの“パブロ・マルケス”という人格以上のものだ
と気づいた。
彼が再び強く締めたあのとき、今まで意識して距離を置き続けた私の“苦い留学体験”その
ものが、現在の私を祝福して手を差し伸べてくれてるようなそんな錯覚に陥ったのだ。
 
つまり私にとってパブロ・マルケスとは、“私の留学”“私のフランス”であり“私の青春”その
ものだったのだ。
 
 
(おわり)
 
 

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“親愛なる先生(パブロ・マルケス編その3)” への2件のフィードバック

  1. H.T より:

    僭越ながら、コメントさせていただきます。
    最近、暇を見ては昔に記録したカセットテープの音をデジタル化しております。
    20年ほど前に、FMで流れていた国際ギターコンクールを録音したテープがあり、
    今し方、その音の中で特に気に入っていた “リディア旋法による2つの歌” をデジタル化しておりました。
    現在では “2つのリディア調の歌” と訳されているようですが、その音を奏でていたギタリスト
    “パブロマルケス” をググっていて、このページにたどり着きました。
    松下さんが “ギタレリア” で遭遇した当時のパブロ・マルケス氏、
    初見が苦手だったというエピソードがなんとも滑稽に感じました。
    大変興味深い記事、有難うございました。

    • ryuji より:

      H.Tさま
      こちらこそコメント戴きありがとうございます。
      そういえば昔、FMでパリ国際ギター週間およびコンクールの音源をオンエアしていましたね。
      司会進行が濱田滋郎先生で、、、。
      「パリ・コン」は当時世界トップレヴェルのクラシックギターコンクールでしたね。
      アルゼンチンの俊英パブロ・マルケスが優勝した時、彼は二十歳そこそこだったでしょうか。
      パリ・コンは確か作曲部門もコンクールがあって、優勝作品が翌年の課題曲になったりするんじゃなかったでしたっけ?(この辺の情報はいい加減です。誰か御存知の方おしえて~)
      第一回パリ・コン作曲部門優勝作品がJ.ロドリーゴが匿名で出した「祈りと踊り」だったと記憶しています。(他に記憶しているものではF.クレンジャンスの「最後の日の夜明けに」とか、、、)
      パブロ・マルケスが優勝した年の課題曲がN.ダンジェロの「2つのリディア調の歌」で、彼の演奏でこの曲は広まりギター界における<現代の古典>となったようです。
      当時日本人ギタリストでレパートリーとして演奏されてあったのは(拝聴はしておりませんが)柴田杏里さんが比較的早かったです。
      私がパリにいたころには多くのギタリストがレパートリーにしており、イタリア人のA.ビンジャーノ、A.デジデリオらのコンサートで聴きました。
      この曲でP.マルケス、R.ゲーラ、福田進一各先生のレッスンを受けさせていただいたことは「大切な宝もの」として現在も私の心の中にあることを、このたびH.Tさんのコメントをきっかけに再確認させていただきました。
      本当にありがとうございます。

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