今日のブログも 脱線を前提としてスタートしたい。
お題より先にまず考えたいのは クラシック・ミュージシャンについてである。
クラシック音楽を演奏するからクラシック・ミュージシャン ではない。
押尾コータロー氏が アコギ1本でラベルのボレロを演奏したからといって彼をクラシック・ギタリストとは云わない。逆も然り。
即ち 仮に弾いている曲がポップスだとしても《音符を媒体とした演奏の伝統》に基づいて活動するギター弾きのことをクラシック・ギタリストと云う。そして複数のやり方で弾ける”ハイブリッド・ギタリスト”も 世の中には居る。
「本人や周囲があれこれ定義するだけで そんなこと音楽には関係ない」
という声もある。そうかもしれない。ただ私にとって”演奏”が他人事でない時 そのシミのような一点が 大きな違いとして自分の中に広がってゆくのを感じる。
「音楽には関係ない」 「関係ある」
そういった白黒二分法の片側でなく そのあいだにあるグレーゾーンに身を置き続けて久しい。
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ハイブリッドなスタイルは時代のファッションであるから 仮にそうでなかったとしてもコンプレックスを持つ必要は無い。もちろん同じ場所にとどまることなく動き いつもと違うところに身を置くことで 複数の視点が得られることは確かにある。ただそのことが必ずしも《視野が広がること》につながるわけではない。逆も然り。
今から二十年ほど前になるだろうか。鈴木大介君と山口の仙崎を旅したことがある。金子みすゞの生まれ故郷であり かつては捕鯨の基地として栄えた 現在は蒲鉾で有名な漁港であるが さほど広くないエリアの中にやたら寺が密集していることに彼は着目した。26年という短い生涯だった金子みすゞがその人生の大半を過ごした仙崎の町。そこから外の世界に出ることなくあれだけグローバルな詩が書けた要因のひとつに 仙崎という町に根差した仏教思想があるのではないか?三十代前半の若さであっというまにその仮説を導き出した彼の洞察力に 当時舌を巻いた記憶がある。
そう 狭い世界に身を置きながら 広い視野につきぬけた金子みすゞのことを 仙崎の持つ独特の空気感とともに 数年に一度くらいの頻度で思い起こすのである。
ずいぶん遠くに脱線した。
脱線したまま 今日はこの辺で終わろう。
2024.10.04.