先月、生徒のひとりがコンクールを受けた。
私がすすめたわけではない。私はコンクールはきらいなのだ。だが彼は若く、今後プロとして活動してゆきたいと考えているので、「コンクールの場で評価されたい」という気持ちも全くわからないものでもない。経験としてもまあいいか、と考えて半年以上かけて共に勉強した。課題曲はアグアドのあの難曲。そもそも審査員で弾けるひといるのだろうか。この場合の”弾ける”というのは、単に音を並べることではない。
重ねて言うが私はコンクールがきらいである。だから勉強は共にしたが、当日は見に行かなかったし、結果も聞かなかった。その日連絡がなかったので、なんらかの形でだめだったのはわかった。数日経ってレッスンに来た彼から「予選落ちだった」と聞かされた。日本のクラシックギターコンクールなだけに右手のタッチが評価されなかったかな?と思ったが、彼が持参した審査員のコメントを見せてもらうと内実はちがった。やたら数が多い審査員(なぜこんなに審査員が必要なのか?)のコメントで最も多かった意見は「古典作品はインテンポで弾きましょう」。あと講評の際、「古典の時代、ひとびとはロマン派の演奏は当然知らなかったわけで…云々」と言われたことが本人は気になったようである。
その話を聞いていて感じたのは、以下の三点。
*私の音楽解釈が(主にギター関係者の)審査員の意にそぐわなかったこと
*そのせいで彼が落選した要素が強いこと
*コンクールを受けた本人にとっては、私の意見よりも審査員の意見のほうがパブリック性が高いこと
というわけで彼には大変もうしわけないことだった。今後もコンクールを受けるつもりか?と尋ねたところ「ぜひ受けたい」という返事だったので、「それなら別に素晴らしい先生がいるから」とよそを紹介した。今後は師弟じゃなく仲間だよ、がんばってね~さよ~なら~~・・・・
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まあそれは全然いいのだが、むしろ私にとって全然よくないのは、古楽の冒険が一周二周したこの2024年現在において、19世紀後半から20世紀初頭の新古典主義時代に培われた価値観「バロックおよび古典作品はインテンポ」「楽譜に”忠実な”演奏」「ルバートしてはいけない」をいまだに信じて、そこから一切動いていない演繹的に生きる人々である。ルバート=ロマン派とでも思っているのだろうか。もちろんバロックおよび古典時代とロマン派時代のルバートは多少質が違う。違うとはいえ、ひとつの楽曲およびフレーズの中に異なるテンポ感が混在した上で、全体のテンポ設定は成り立っていると私は信じている。そう、あくまでも私の場合の話である。ここでいう《私の場合》というものは何を根拠にできているかというと、私がこれまで聞いて感銘を受けた数々の演奏を根拠にしているのである。それは審査員も同じだとは思うが、大切なのは「外に向かって心が開いているか」ということ。
当日の彼の演奏が未熟かつ説得力が足りなかったため落とされた、ということは容易に理解できるし、その審査員のご判断に対しての異議は全くない。皆様たいへんおつかれさまでした。ただ生徒さんに対し作品ごとの多様性を日々どう伝えるか四苦八苦してもがいているこちらの苦労を、演繹的な権威であっという間に蹴散らしたことに対し「やはりコンクールというものとは関わりたくない」という思いを一層強くしただけである。
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先日レオナルド・ブラーボさんのコンサートを地元福岡市で主催した。いつ聞いても素晴らしい演奏だが、今回そういうこともあって彼の駆使するルバートの巧妙さと抜群のイメージセンスがポンセ、ビラ‐ロボス作品において特に印象に残った。
終演後ふたりでいったロイヤルホストで、彼はこう言った。
「ノ~~~ッ!アグアドのあの作品はロマン派の要素がたくさん入っている!」「海外のコンクールで評価されるひとが、日本にきてコンクールを受けても全然評価されない原因はそこにある」「わたしもいつも生徒に言う。『コンクールを受けるならその曲は他の先生に習ったほうがいい』」
う~ん、やっぱりそうよね・・・・
中年のおっさんふたり、仲良くヨーグルトパフェをつつきながら、「コンクールには関わりたくないね」で話を〆た。
2024.09.10.
ちょっと前に入選作品、賞金一千万円、書籍化、映画化! というような小説大賞がいくつかありました。その賞に入選するための『塾』もありました。各賞の審査員が好む傾向を分析し、眼鏡にあうよう作品をカスタムしてくれる、みたいな。
それを知ったとき、なんか違う。と思いました。
今回読ませていただいて、なんか違う、とまた感じたのですが、逆に考えると、そのように演奏すれば入選できるのかしらん、とも思ったりした次第です。(語彙が乏しい……)
先日聞かせていただいたレオナルド・ブラーボ氏の。
おおらかで時に繊細で美しく、あの日あの時間の一度限りの演奏を堪能させていただきました。
ありがとうございました。
S.Hongouさま
それはどうでしょう?(笑)
入選するんですかね・・・
審査員が「わたしの好みで評価しました」と明言する場合は個人的に好感がもてますが、「古典の演奏とはこうあるべき」みたいな切り口では「あなたはその時代に生きていて聴いたのですか?」と問いたいです。
演奏の未熟さに対してではなく音楽の捉え方に対して評価するのなら、それは好みを軸にしているということではないでしょうか。
音楽の多様性を受け入れる視点があるうえで、「私はこういう演奏が好み」と言いきれたら、それは心が外に開いているといえるのではないでしょうか。
まあ、価値観を他者にゆだねている時点で、出場した本人は絶対に文句を言ってはいけないと思いますが。
審査員とて、せっかくその場で音楽を聞かせてもらえているのだから、自分の知識や判断なんかは一旦置いて、自分の心が喜べるようにしっかり味わえばもっとその瞬間を楽しめるだろうし、その場の生々しい人間味のある音楽にも触れられるはず。
そうなれば出てくる言葉も変わってくるでしょうに。
古典音楽はインテンポ、、、げな。幸薄すぎる言葉、、、涙
そもそもルバートはモーツァルトの父ちゃんの時代からあったじゃなかとですか。おまけにルバートなんて言葉がない時代からそういった揺らぎは古い音楽ほどあったはず。人間だもの。
コンクールはあっても良いけれど、審査員も
音楽的な知識をちゃんと超えて、自分の感覚に責任持って真正面から相手に向き合う、みたいな審査員が増えるといいなぁ。
いけしんみつおさま
いらっしゃい巨匠、(とってつけた博多弁による)コメントありがとうございます。
「音楽的な知識をちゃんと超えて、自分の感覚に責任持って真正面から相手に向き合う」
日頃のレッスンの理想でもありますね。
さまざまな音楽や演奏に触れたうえで自分の感覚に責任もてば、他者の評価を気にしなくても自然と多くの人から受け入れられる演奏になっていくのでは、なかっちゃなかとでしょうかね。うわ~、ツヤつけてしもうたばい・・・