パリのオリンピックもそろそろ終わりに差し掛かっている。
若いひとが活躍するのを観るのはやはりいいものじゃよ。しかし毎回思うのじゃが、スポーツを国家別にやる必要がどのくらいあるのだろうか?せっかく個人を応援する気で観ているのに、番組キャスターが「日本はこれで金メダル〇個獲得」などと言っているのを聞くと一気に興ざめするわたし。これは代理戦争か?もちろん本当の戦争よりはどれだけいいかしれないが、、、。
日頃スポーツ観戦するのはボクシングくらいで、地元ホークスの選手の顔さえもよく知らない。ルールがしっかり解って、選手の緊張やよろこびに共鳴出来るようになると、どのスポーツ競技でもきっと観戦は面白いものになるだろう。それはクラシック音楽を演奏する際の楽譜への向き合い方も同じである気がする。マズルカはマズルカの遊び方(ルール)、メヌエットはメヌエットの遊び方、ワルツはワルツの感じ方、ソナタはソナタの楽しみ方、転調技術に現れる作曲家の腕、偽終止、ペダル、一拍目のバスの不在、ナポリの6、音列の反行と逆行、カットアップ、そして民族性、、、
「音符があるから ” とりあえず ” ひくことができる」というのがクラシック最大の落とし穴。そこに本来あるはずの《感触》を置き去りにしても、音符を弾き並べることで ” 演奏行為 ” としては成立してしまう。でもそれは ” 運動行為 ” ね。
他者(作曲家)と向き合い、譜面を通し相手の気持ちに近づいて、その心をさぐるのがクラシック音楽の醍醐味であるが、生活の中で日常的にそういう生き方をしていない人間が、音符と向き合った時だけそうしようなんざ いささかむしがよすぎるさあね うそだあねそりゃ
音楽と向き合う時のように生活し 生活と同じように音楽と向き合う
が 今の理想だなー。
一方で作曲家に必要なのは、作曲技法を駆使することよりも、「いいたいこと」をちゃんと持てるように《ちゃんと生活すること》だろうな、、、余計なお世話だろうが、、、。
2024.08.09.