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ギタリストの周辺(6)

 

この連載エッセイも終わりに近い。

と、いうわけで今回の話で最も重要だと思われる部分に今日は切り込んでゆく。すなわち、、、

”【ギタリストの手によるギター・オリジナル曲】に対し、奏者が手を入れるのはアリか?”

どうでしょう? みなさんはどう思いますか?

これはクイズではない。従って正解も間違いも無い。答えは皆さんそれぞれの中にある( ”そんなのどっちでもいい” も、もちろん含む)。

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答えが決まっているものは、本当の ”問い” ではない

「誰かが問いかけ、誰かが教える」それはただ情報が行き来しているに過ぎない。

《本当の問い》は、答えがない。それぞれが背負い、それぞれが個別に答えを見出すものだ。

「手がかりが見つかるまでは放置する。結論をせっかちに出そうとするよりは、、、」という姿勢もあるいは有効かもしれない。

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ちなみにみなさんの身近にいるクラシックギター弾きで、そういうひとはどのくらいいるものだろうか?

少なくとも私の周りにはいない。編曲作品に手を入れることはあっても、【ギタリストの手によるオリジナル作品】に対し、堂々と公言しながら手を入れる人はひとりもいない。いわばジュリアーニ、メルツ、タレガ、、、、彼らの作品に対し、音を増やしたり、減らしたりするひとのことである。 いない、、、。バリオスのように複数の版から選べる、というのは例外的なケースである。

本来音符には、作曲者にとって「この音じゃないといけない音符」と「この音じゃなくてもいい音符」が混ざっている状態である。私がギターオリジナルに音の変更を施す場合、後者の音符に対してであることは言うまでもない。もちろん自分の勝手な判断にはなるが、その点を見極めようと配慮しながらやる時、聴く側にもそこまで大きな違和感は生まれないものだと経験上知っている。

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前回の最後にちらっと触れたが、コンクールというものは、出場する奏者が「作曲者によって書かれた音をそのまま弾く」ことによって、同じ土俵に立っていることが保証される世界。音楽学校の試験なども、やはりそういう世界。つまり作曲者の書いた音符通りに弾くというのが、「公平性を暗黙の裡に保証する手段」となっているのが、クラシックの世界なのである。今の時点で、わたしはその良し悪しを論じてはいない。まず現状について述べている段階である。

ではなぜ「公平性」というものを必要とするのか?

これはおそらくコンクールや試験など、人と人を比較する時になって初めて必要になってくるものと思われる。ところがコンクールや試験を抜きにしたところでも、クラシック音楽はこの「公平性」という物差しを介して音楽を味わうジャンルにいつからか成ってしまった。すなわち「同じ音符を弾いてるのにXさんとYさんはこれだけ感触が違う」といったふうに。仮にジャズであれば『酒とバラの日々』を他者と全く同じ音符で演奏するミュージシャンはいないのだが、ここが “コード” ではなく ”音符” というものを伝達手段としたクラシックミュージシャンが抱える一番の問題であろう。

ちなみにクラシック特有の《音符を介した演奏》というスタイルそれ自体は、べつに悪いことばかりではない。個人の手癖や経験値のみでは得られない音楽体験が味わえるという強みもある。クラシックミュージシャンにもっとも重要なことは、奏者が演奏にリアリティ(生々しさ)をのせられるかどうか。そういった意味では、やはり台本を演じる役者に近いものがある。クラシックミュージシャンが音のリアリティに肉迫すればするほど、行き当たりばったりでは到底産み出すことの出来ない《構築された深みのある世界》を描き出すことができるはずだ。

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ついでにもうひとつ、想像してみていただきたい。

C.ヘンツェの『ノクターン』。

この曲に音の変更を施すのは、あなたの中ではアリ?ナシ?

B.ブリテンの『ノクターナル』。

この曲に音の変更を施すのは、あなたの中ではアリ?ナシ?

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クラシックミュージシャンとは、”同じ音符” という土俵の中で、そこに「リアリティをいかに吹き込むか」を真剣にやっている人たち。 私個人の事情によりギターオリジナル曲に《音の変更》をやっていることに対して、やや自嘲気味に「もはやクラシックミュージシャンではない」とひとこと書いたのが今回お題をいただいた発端であった。つまり ”クラシック” ミュージシャンではなく【ミュージシャン】という領域でどれだけのことが出来るのか?を自分に問うている最中だ。

ジストニア症状とひと口に言っても、右手親指に症状があるひとと、左薬指に症状があるひとで「できること」「演奏可能な音符」が全然違うので、右手人差し指に症状がある私の都合に合わせた編曲を仮に世に出したところで、同じ条件というピンポイントの人に対してでさえ、お役に立つかどうかわからない。そう、従ってあくまで自分のためにやっている編曲作業。

ただ、(プロも愛好家も含めた)世の中のクラシックミュージシャンすべてが【自分の版】で演奏し始めた場合、クラシック音楽というものがどのようになるのか、生きてるうちにチラッとでいいから見てみたい。通奏低音やカデンツァなどはそういった自由裁量の領域が残されている部分だが、すべての時代の作品に自由裁量の領域がもっともっと広がった時、現在のクラシック音楽の形が崩壊し、別な世界が現れるものなのかな?

『もしもボックス』があればいいのかな?(笑)

 

(おわり)

 

2024.07.07.

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“ギタリストの周辺(6)” への5件のフィードバック

  1. アニー より:

    連休中お邪魔します。
    楽譜通りに音符を奏でているはずのクラッシックでも指揮者、オケによって全然別物のような気がします。
    テンポ、管と弦のバランス、音の伸ばし方などなど
    私の場合、大体最初に聞いた演奏が1番好きかな。
    第9ならフルトヴェングラー、7番ならチェリビダッケ、ラフマニノフならリヒテル、ワーグナーならマリスヤンソンス、ガキの頃に家のレコードやFMで聴いていた演奏がApplemusicでスマホで聴けるのはスティーブ・ジョブズさんのお陰様

    • 松下隆二 より:

      アニーさま
       
      コメントいただきありがとうございます!
      レコードで聴かれてたってことは昭和ですね(笑)。
      LPにしろラジオにしろ拝聴するにあたって、当時なんとなく儀式感が漂ったのをおぼえています。
       
      最初に聞いて感動して、その後他の奏者のものをいろいろ聴く、、、ということになるのでしょうが、最初の感動を他のものでこえることは、なかなか少ないのかもしれませんね。食べ物と似ている気がします。
      巷では「やっぱり演奏はナマ!」というご意見が多いですが、私の場合録音物で感動を頂いていることが割合多いです。
      バーンスタインの『トリスタンとイゾルデ』、ミケランジェリの『ラベル/ピアノコンチェルト』、ロストロとブリテンの『アルペジョーネ・ソナタ』いずれも20代の頃の体験ですが、人生のどの時期で聴いたかも大きい気がしますね。

  2. tomoko.y より:

     全7回にわたり、どうもありがとうございました。
     律儀さも行き過ぎれば、息苦しさになり兼ねないようで迷いましたが、発端が自分の問いであったことを思うと、やはり最後に一度コメントを送らせていただきます。ひとつのけじめです。
     最終回(6)は特に印象深く拝見しました。一方で、何が?どう印象深いのか?を言葉にできないでいるのですが。
     今日は久々に友人と話す機会がありましたが、その友人からおかしな話を聞きました。
    海外旅行にでかけた際に、現地のガイドさんから現地の言葉で身の上相談を持ちかけられたというのです。もちろん友人には外国語はわかりません。それぞれの母国語、スペイン語と日本語でやり取りをしたとか…。
     音楽用語も、業界としてのその世界についても、全然理解の及ばない私です。けれども、<伝える>とか<伝わる>ことには、友人のスペイン旅行ではないですが、時に伝え方の<正確さ>を飛び越える何かがあるのかも知れません。そこには当然、誤解や勘違いもあると思われます。
     鵜呑みしたり、心酔したりということではなく、今の松下様のお考えの如何が、おこがましくも少しは伺えた気がいたしました。
    (0) の回で仰っているとおり、視点や視座はこれまでにも伺ったことと通い合っているように拝見しました。

     私が疑問を抱くきっかけのエッセイから、たまたまですがちょうど一か月のようです。
     他の読者の方もそうでしょうけれども、私にもときに、私の<そういう時期>が訪れます。一度ならず、時を経て繰り返し。
     本、絵画、自然… そういったものが一助として支えになることもあります。音楽もそうです。
     ギターにふれるようになって有難いのは、練習に必死なその<瞬間>は頭の中が空っぽになることです。

     3つ、謹んで承りましたので、返信ご放念いただいてもと、思っております。
    不慣れなSNSへの投稿に恐れつつお尋ねして以来、私自身も想像していなかった展開に、恐縮するような申し訳ないような。
    最後まで丁寧に取り扱っていただき、お話いただきまして、どうもありがとうございました。

    • 松下隆二 より:

      tomoko.yさま
       
      御題を頂きつつ、結局書き終わってみると、御質問にちゃんとお応えしたものではなく、御質問の周辺をうろうろし、思いつくままに私見を述べただけのものになってしまいました。読者の皆様にそれぞれ考えていただき、それぞれの答えを探していただきたい思いで、そのような形になってしまったこと、おわび申し上げます。
      とりあえず《編曲》という言葉に僕が背負わせているものを、ウソの無い形で書き残すことはできたかなとは思っています。
      この機会を頂き本当に感謝です!

  3. tomoko.y より:

    ・・・ 答えが決まっているものは、本当の ”問い” ではない

       「誰かが問いかけ、誰かが教える」それはただ情報が行き来しているに過ぎない。

       《本当の問い》は、答えがない。それぞれが背負い、それぞれが個別に答えを見出すものだ。・・・

    雲のようにぼんやりと 経験から 思っていたような、感じていたような、事です。
    今回、ことば にいただいて、私のなかでやっと形を成したことでした。とても大きなことでした。

    ウソではない、ひとつの真実と受け取っております。

    さて、好奇心からついつい いつも質問をしてしまいます。それこそ、雲のように 質問がもくもくと湧き上がるのです。
    自宅で練習中 よく思います。
    頭でっかちに訊いている場合ではないな…弾けるようにならんことには… 果てさてさて… と。
    お恥ずかしいかぎりです。
    今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

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