”オリジナル曲”と言うと、その曲がつくられた「最初の状態」を指すことが多いと思う。
滝廉太郎のふるさと大分県竹田市には、『荒城の月』廉太郎オリジナルヴァージョンに対する愛着とこだわりがある人が多い。そう、ご存じの方も多いと思うが、現在多くの人に知られている『荒城の月』のメロディは山田耕作による編曲ヴァージョンであり、メロディが一箇所だけオリジナルと音が違うところがある。
それと別の話だが、ウン十年前、某ギター専門誌にエッセイを書いた折、当時の編集者から、言葉の言い回しを無断で大幅に変えられた思い出がある。しかも、さほど変える必要があると思えないところで、、、(あちらには必要があったのだろう)。つまり私のオリジナル文章に対し《積極的アレンジ》をやられたわけだ(笑)。その結果もとの文を書いた本人からすれば、「確かに私の言った(書いた)言葉ではあるが、読者にそう伝えたかったわけではない」みたいな、自分の文章に対し妙によそよそしい感覚が残ったことを記憶している。
話がまた逸れた、、、。では、《クラシックギターのオリジナル曲》とは何を指す?
クラシックギターで弾かれることを想定してつくられた曲のこと。つまりクラシックギターさんがしゃべることを前提として書かれた文章。
その場合、作曲者がギタリストか、ノン・ギタリストかで事態はさらに微妙さと複雑さを増してゆく。ギタリストが書いたギター曲は、その作曲者の「ギターという楽器に対するイメージ」「演奏技術に対する考え方」などが音楽そのものに反映してくることが多いので、そういう側面も検討すると、よりしっくりと演奏できることもある。ソル、タレガ然り、ブローウェル、アサド然り、、、。
セゴヴィア・レパートリーの場合は、もう少し複雑だ。普段オーケストラやピアノのために作曲している作曲家の手によるため、《オリジナルギター曲》といっても、「そのままでは演奏不可能」もしくは「演奏効果が薄い」あるいは「セゴビア個人が苦手」みたいな箇所が、その譜面の中にゴロゴロしている状態である。あるいは別な言い方をすれば、ギター弁でしゃべるはずの譜面の中に ”ピアノ弁” ”オーケストラ弁” ”弦楽カルテット弁” などの方言(これは作曲言語のことというより、その楽器編成特有のしゃべり方について言っている)が、あちこち残っている状態。ギターという楽器は、本質的に模倣の楽器であるので、作曲者の頭の中に在る「ギターではない《他の楽器》」を模倣できればそれはそれでいいのだが、、、。ちなみに模倣ということを少し突っ込んで言うと、「実際の音響的な模倣」というよりは「それを聞いた時の心理状態(あるいは印象)の模倣」である。
したがって私の中では、ノン・ギタリストの手によるセゴヴィア・レパートリーの《オリジナル譜》は、まだ完全にギターオリジナル曲に成りきる前の「半オリジナル曲」の状態であり、それを演奏するギタリストによって編曲されるのを作品が待っている状態である。超絶技巧の持ち主はもちろんそのまま弾いてもいいが、弾けたからと言って別に「すごい」わけでも「作品に忠実」なわけでもなく、「音楽としてどうか?」の方がはるかに大切だというのが私の考え方。セゴヴィア弁はギター弁という方言の中でも特にあくの強いものである一方、献呈した作曲家もセゴヴィア弁によるその曲の演奏を想定していたことを考慮すると、その編曲価値は非常に高いと言える。それを踏まえた上で、ギタリストそれぞれが自分演奏用に編曲することは、今後の世の中でアリだと個人的には感じている。だがそれを阻んでいるのが「コンクールというものが生み出す価値観」であることは疑いがない。
(つづく)
2024.07.02.
【ひとつ、よろしければ】
『 … 献呈した作曲家もセゴヴィア弁によるその曲の演奏を想定していたことを考慮すると、その編曲価値は非常に高いと言える。』…とはどういうことでしょうか?
直前の『 … セゴヴィア弁はギター弁という方言の中でも特にあくの強いものであり、… 』 まではついて行けて?いるのですけれども、
それが何故、
『 … 献呈した作曲家もセゴヴィア弁によるその曲の演奏を想定していたことを考慮すると、その編曲価値は非常に高いと言える。』となるのか?、が私にはよくわからずにおります。
“解りたい、理解したい”というよりは、お聞きできるせっかくの機会はなるべく大事にしたいナ… という感じです。伺ったことを、自分のあたまでもつなげて考えられたらいいナ…みたいなことを思います。
もう少しそこのところをお伺いできれば幸いです。
『ギタリストの周辺』…ひとつひとつ丁寧に綴ってお話いただき感謝です。
私のような者には、<用語>を引き々き難しいところもございますが、有難くまた楽しみに拝見しております。
また<つづき>を楽しみにお待ちしております。
【ほっと致しました】
先月22日の麻尾様からのコメントを感謝いたします。SNSで投げかけた手前、安堵致しました。どうもありがとうございました。
tomoko.yさま
そうでしょう、ついてくるの大変だと思います(うんうん)。
御質問の箇所、今読み返してみて確かに分かりにくいと思ったので、本文の方、少しだけ言い回しを変えてみました。
「セゴヴィア弁はギター弁という方言の中でも特にあくの強いものである一方、献呈した作曲家もセゴヴィア弁によるその曲の演奏を想定していたことを考慮すると、その編曲価値は非常に高いと言える。」
前の言い回しだと《あくが強いから編曲価値が高い》と言ってるように聞こえましたね。そこは関係ありません。ごめんなさい。
セゴヴィアに曲を献呈した作曲家は、自分の曲が【セゴヴィア・サウンド】で響くことを想定して作曲しているという時点で、セゴヴィアの(ギター弁への)編曲は、作曲家と共同で作曲しているに等しい、とも考えられるわけです。
ただセゴヴィアが編曲した J.S.バッハや F.ソルの作品に関しては、別な捉え方が必要かと思います。意義が全く違うので。
【ありがとうございました】
それほどセゴヴィアさんが(“セゴヴィア”と呼べるほど私はまだギターを知りません)献呈した作曲家達を魅了していた、ということでしょうか…
音楽に限らずかも知れませんが、今回の場合は音楽についてですけれども、考えるだけでも、つまり理屈や理論だけでもどうなのかなぁ…、つまり私はセゴヴィアの演奏を聴いたことがないので、やっぱり<音楽>は聴いてなんぼかなぁ…と、図書館でCDを借りて参りました。大変マジメな生徒です。(冗談です)
どの演奏会、どの録音の場合にも個人的にはですが、「名人」とか「大家」とか、そういう先入観をなるべく持たずに純粋に音を聴けたらどんなにいいだろう…と願っています。
私の耳はふつーの耳で、正直専門的なことはよく分かりません。
けれども、もしこれまで聴いたことのある録音が“流れるような”、“つまずきがなく滑るような”演奏だとすれば、借りてきた録音からの演奏は“流麗”とか“洗練”という印象とは違う気がしました。
そこで、またふっと思うのです。(いつもの悪い?癖です)“録音”ってなんだろう…?などとか…。
プロの演奏だから“なめらか”とかそういうことでもなさそうですね?… “なめらかさ”が<よきこと>という価値観も時代によって変わるものでしょうか?… つるつるしたきれいな演奏といいますか…
いずれにしても、私はまだギターの赤ん坊ですので、謙虚に聴きたいものです。
先月の<突然おさらい会>、ありがとうございました。
奏者と、当然使用される楽器もクルクル変わるなかで改めて感じたのは“私はギターの生音はこれまであまり聞いたことがなかったのかも知れない”、ということでした。同じクラシックギターの演奏でも、奏者と楽器が変わると音が変わるのですね?…
改めて、いままで私はCD(録音)を聴いてきて“クラシックギターが好きだ”とか言っていたのだなぁ…と思いました。ちょっと滑稽かも知れません。
演奏会もそうですね?同じ人がずっとプログラムの最後まで弾かれるので、トーンは最後まで一定で、人と楽器によって音が変わることになかなか気づけない気がするのです。
音楽って面白いですね。(淀川長治さんみたいになってしまいましたが)… 聴いたり、考えたり、弾いたり、感じたり…。
失礼しました。どうぞ返信お気遣いありませんようにお願いいたします。
tomoko.y さま
そうですね、ラッセンよりはゴッホとかルオーとかムンクみたいな「その人にしか描けない線」という感じです、セゴヴィアの演奏は。
そのものすごく個人的な演奏法が世のギタリストの規範になってしまった時代があったのです。そして今度はその反動というか揺り返しが当然起こり、“流れるような”、“つまずきがなく滑るような”演奏が主流になりました。それぞれ約40~50年くらいの周期で変化しています。
ちなみに私は長年にわたり権威というものが大嫌いです。権威的にセゴヴィアを持ち上げる人は嫌いですが、セゴヴィア本人はわたしにとって好き嫌いをこえて感謝を感じる対象です。
tomokoさんご自身の今の音楽との接し方、いい感じですね。
私も音楽は聞いてなんぼだと思います。
そのまんま進まれてください!
ありがとうございます。
今朝、折しも解説入りの動画♪より、スペイン内戦時のセゴヴィアの活動などを聞き知りました…
結果として?世界をまたにかける活躍や、そこでの作曲家たちとの出会いやら…
ふと、だいぶ乱暴な要約かも分かりませんが…
あぁやはり“出会い”かぁ…と腑に落ちました。相手は、人とであったり、事象とであったり…
ものは出会いの中から生まれるのだなぁ… と。
かつてTVで観ていた『日本むかしばなし』の歌詞ではなですが、“にんげんっていいなぁ”…と頭によぎった朝でした。
ありがとうございました。