前回の続きである。
今ここでその是非を論じるつもりは無いが、現実として音楽には ”ジャンル” というものがあり、それぞれ固有の演奏スタイルを持っている。スポーツに競技がいろいろあり、それぞれ固有のルールを持っているのと似ている。
ただスポーツと比べた時、音楽はその垣根がスポーツほど厳格ではない。サッカーボールを使って野球をやったり、バスケットボールを蹴ったりはしないが、音楽の場合は、クラシックのメロディーをジャズのスタイルで演奏したり、清志郎のように「君が代」をロックのスタイルでやったり、越境の仕方はさまざまである。
時折巷で「音楽は自由であるべきだ」「ジャンルなんて関係ない」という言葉を聞く機会がある。そのひとがどういう文脈でその言葉を使っているかによって、私は共感する時もあるし、全く共感しないときもある。どちらにせよ会話の中でこの言葉が飛び出してきた瞬間、私はいつも反射的に身構えてしまうクセがあるのだ。なぜならそれを口にしている人が、理想論あるいは無邪気な綺麗ごととして語っているケースの方が非常に多いからである。
マイルス・デイヴィスはその自叙伝の中で「”ジャンル”ってやつが嫌いだ。音楽にそんなもの関係ないだろ。」と語る一方で、その舌の根が乾かぬうちに「演奏ってやつは”スタイル”がすべてだ。」とも語っている。この一見矛盾したことばが共存しているのが《現実》というやつである。そう、現実は複雑なのだから、単純な言葉で切ってしまえるものではない。矛盾が共存すればするほど現実的だと言える。
5年前のある日、わたしはジャズミュージシャンの群れの真っ只中にいた。そしてその日、ベース奏者がアルコで『カバティーナ(マイヤーズ)』のメロディーを演奏する横でギター伴奏を付けていた。八分音符でコードをアルペジオするだけである。終わった後でジャズギタリストの田口悌治さんが「僕はああいうふうには伴奏できません」と言っていた、、、と人づてに聞いた。他の人にはわからなくとも私にはその真意がわかった。その日のわたしは、八分音符のアルペジオを《クラシックミュージシャンの流儀》で弾いたのだ。
音符として同じものを弾いたとしても、田口さんだったらジャズミュージシャン、あるいはポップスミュージシャンの流儀でアルペジオするだろう。マイヤーズの『カバティーナ』は、別にクラシック音楽ではないから、どちらのアプローチでも成立させることはできる。
だからこれは別に自慢話ではない。
(つづく)
2024.06.22.