いやー先日はたのしい二日間でした。東京の坂場師匠ありがとうございます。ひさしぶりにクラシックギター演奏の神髄を堪能させていただきました。
その一方で個人的には”不思議な懐かしさ”も彼の演奏の中に感じました。私もかつてはあの繊細な世界に居た気がするけど いつしかこうなっている自分に今回気づかされた次第です。演奏もさることながら、池田氏も交えいろんなお話ができた時間がなによりでした。池田氏にも大変感謝です。
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私が日常やっているのは塾のようなもので、《教育》や《啓蒙》という意識からできるだけ遠いところに居ようと心掛けている。ギターを楽しみたい皆様をいかにサポートするか、ともに歩んでいくか・・・が町の個人教室講師である自分のやることであって、ともすれば身に付着しがちな《権威》のホコリを払い落としつつ日々過ごしている。
《権威》はきらいだが、《公的機関》というものの存在については(自ら近寄らないとはいえ)否定しているわけでもない。ここで言う公的機関とは、学校や協会、連盟など組織のことである。それらの存在に私なりの意義を見出すとすれば「世の共通認識に貢献すること」もしくは「共通認識を更新すること」以外に無い。
現代のSNS社会において、個々が自分の”好き”を追求することがやりやすい一方で、過去には当たり前のように存在していた共通認識が崩壊している。クラシックギターの世界で例えるなら そう「ソル、タレガ、セゴヴィアという人がいてこんなに素敵な音楽を残していますよ。」「へえ~、でも私彼らの音楽に興味ないし知ってる曲ひくほうが・・・」とか、あるいは前回の記事で書いた”楽器の扱い”に関することだったり歴史認識だったりと、その内容は多岐にわたる。
もちろんそれでもいいのである。ギターを弾くということに関して我々は当然サポートする。ただ自分とギターの関わりを楽しんだその先に「他者がギターとどう関わっているか」という世界にもぜひ目を向けてほしい。その時初めて共通認識というものの存在が意味を持ち始める。その時感じたことを自分とギターという個人の世界に還元してゆく。この繰り返しではないか。
個人塾単独ではむずかしく、公的機関が世に貢献できることとは、この”共通認識”のブラッシュアップではなかろうか。もっともそれが本当に必要なものなのかどうかは、実は私にはわからない。公的機関つまるところ学校教育やコンクールという場は、権威へのあこがれ、承認欲求、ボランティアでやらされてる感など、負の感情の温床となりやすい要素が多過ぎる。
一方でギター界の将来への危機感を煽る向きもあるが、一地方にいる実感として、どこかにセンターを置きそこに依存した活動というものとは縁がないので、そのような危機感は一切ないし、私にとっては《ギター界という幻想》よりも《目の前にいるひと》という現実のほうがはるかに重要なのである。
ここまで詳しい話はしていないが、ざっくりとこんな内容の話をしたところ「わたしこれが好きなんですよね~」と伝え続けるしかないんじゃないか・・・というおふたりの結論。なるほど、つい《共通認識》なんて堅苦しい言語化をするから、堅い話になっちゃうのよね ぼく。
おふたりのほうが私よりはるかに柔軟で人間が出来てらっしゃるので救われた感じがしました・・・
とさ。
2025.10.10.