世間はいつのまにかゴールデンウィークに突入しているようである。
私に断わりもなしに・・・。
べつに生徒さんに八つ当たりするわけではないが、うちの教室はゴールデンウィークなど関係なくレッスンを敢行する。博多どんたくにもそんたくしない。ちなみにうちの教室の最寄り駅はドームの最寄り駅でもあるので、田舎町ふくおかの割には平日から賑わっていたりする。
あ、でもね。たしかに田舎町だけど、クリスタル・キングの『大都会』ってあれ博多駅周辺のことを歌ってるのよ、知ってた?果てしない夢を追い続け大空かけめぐるのは、博多駅周辺の話なのよ。クリスタル・キングの裏スタッフをやっていた Yさんからその話を聞いた時は、それはショックだったわ・・・。
でも先日、地下鉄に乗ってて広告見てたら、5月3日《福岡ボート》のトークライブに私の好きな芸人さんの「永野」が来るらしい。競艇には興味ないが、途中レッスン抜け出して見に行こうかな。まさかラッセンは、やってくれないだろうが。
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いささかまじめな話になるが、昔から気になっていることがある。
音楽教育者、演奏家、一般愛好家、教室講師などの立場は関係なく、「音楽は自己表現」と口にするひとが一定数いるが、僕個人はどうしてもそれに共感できない。《演奏》という言葉が《表現》という言葉に置き換えられた時に、いつも生理的違和感を覚える私はヘンだろうか?
ポップスにはひょっとしたらそういう側面もあるかもしれない。だがひとが作った曲を演奏するクラシックはどうだろう。私なりに無理やり言葉にすると、クラシックにおける《演奏》とは「作品を通じて他者を洞察する行為」である一方、その場にいるひとと《その感触》を共有するために「その場にいるひとの存在を忘れ、音楽に没入する行為」。
他者(作曲家)を洞察し、その感触を感じるため、その場にいるひとたちの存在を忘れ、音楽に深く入り込んでゆくその結果、そこにいるひとたちとつながれるかもしれない・・・
同じ内容の文章を二回繰り返したが、伝わっただろうか。ここには自分を表現するすき間など一切ない。少なくともクラシック音楽に関しては。ちなみに確かキース・ジャレットだったと記憶しているが「演奏家に出来ること、それはほんの一瞬相手の心に入り込むことです」みたいなことを言っていた。
他者を洞察した結果、演奏者それぞれの結果に辿り着く。その《結果》が「自己表現」に見えるのかもしれないが、その内実はまったく違う。ただ勿論プロのクラシック演奏家の中にも自己表現の場として音楽を使っているひとは居るかもしれない。そういう場合は作品そのものではなく、その演奏者に賞賛が集まることが多い。それはエンターテインメントとして素敵であっても、クラシック演奏とはいえない。
《表現》という言葉には、なにかしら作為性のようなものを感じる。「音楽をやる」のは「生きる」という言葉に似ているかもしれない。生きることは自己表現だろうか?《表現》というその言葉に置き換えた瞬間、「そんなに観念的なものか?」という疑念が、わたしのなかに常につきまとうのである。
2025.4.30.