5月に入ってから現在に至るまで 自分の体と心に さまざまなことが起こっている。
それらに翻弄されつつ足掻き 打ちのめされ 這いつくばって また立ち上がって歩もうとする。が 半歩あゆみを進めたところで 今度は全然別なことが起こり また転ぶ の繰り返し。つらい思いをしている感覚はあるのだが 世の中にはもっとつらい ただ生きていくのでさえ 必死な思いをしている人が たくさんいることもわかっているので 贅沢は言えない。
30代前半 聴神経腫瘍で片方の聴覚を失ったことについては 正直そこまでダメージを受けなかった。人前での演奏が精神的にきついと感じるのは 20代の頃からたびたびあったが ここ最近は特にきつい。逆にむかしは何故あんなにおおむね平気だったのか その感覚が思い出せずにいる。
ジストニア症状との付き合いも 思いのほか長くなってしまった。リハビリは続けているが 結果に繋がってこないのがつらい。一方で 楽譜の音を減らしたり増やしたりアレンジすることに まるで抵抗が無くなってきたが その時点でじぶんが最早《クラシックミュージシャンでない》ことを感じる。別にクラシックミュージシャンでなくても本人は全然かまわないし たぶん私のアレンジ演奏を聴いても どこをどう変えたのか 気付かない人のほうが圧倒的に多いだろう。
10代の頃から愛奏してきたM.M.ポンセの「主題・変奏と終曲」を 自分ひとりの楽しみの為にアレンジし 《ジストニア版》を作った。楽しくて練習していたら 今度は左手親指の第二関節に痛みを感じた。病院に行って検査してもらったら「腱鞘炎の一歩手前」という診断だった。医師によると 20才以降<ひとの筋や筋肉は落ちる一方> 特に50過ぎてからは加速度的に落ちるので 「今後は弾く時間を減らしてください」と言われた。
ついでに右手のジストニア症状の話をした。病院での検査を受けたか聞かれ 受けてないことを伝えると あからさまに不快な顔をされた。「どういう症状ですか?」と聞かれたので 痛みは無いが指が巻き込んだり空振りを起こすことを伝えると「それはジストニアじゃないんじゃないですか」と言われ 続けて「そんなネットのいい加減な情報に振り回されて・・」と かなり圧の効いた言葉を吐き捨てるように言われた。
わたしがお世話になっている理学療法士の西山先生も「局所性ジストニアの症状を訴える人の8割は ジストニアではなく筋力低下」とおっしゃってるので 正直わたしには名前なんてどうでもいい。症状があること自体が問題なのだ。病院で診断を受けないのは わたしなりの理由があるのだが それについてここで30分かけて議論をしろというのか?
その医師は腱鞘炎のスペシャリストとして評価されてある方だが こちらから引き出したほんのわずかな言葉で こちらのことを「ネットの安っぽい情報に安易に振り回されている」という図式に早々とはめ込んだのが どうにも気に食わなかった。会話の反射神経がわたしのように遅い人間は「伝えるすべがない」と諦めるべきなのか。きっとお忙しい先生なのだろう。自分もレッスンの時に生徒さんに対して そういう物言いになっていないか 今後気をつけよう。
聴神経腫瘍に精神的不安 右手にジストニア症状 左手に腱鞘炎前夜・・・
自分の活動が ひとつの大きな転機にきているのを感じる。
2024.06.15.
【素朴な疑問として…】
ご挨拶失礼します。
コラムの本題からはズレた問いになるのかも知れませんが、素人の素朴な疑問として、一つ質問をさせてください。
>楽譜の音を減らしたり増やしたりアレンジすることにまるで抵抗が無くなってきたが その時点でじぶんが最早
>《クラシックミュージシャンでない》ことを感じる。
“ほんとうにそうだろうか?そうなのだろうか?…” という問いです。音楽の知識のない者ですので、“えっ!そうなのですかぁ?”というニュアンスの方が真意です。
私の記憶違いかもしれませんが、たとえばクラシック音楽の譜面の右上辺りに「〇〇編」という記載をみたような気もしますし、編曲されたクラシック音楽というのは、それはそれでクラシック音楽として<在る>ように思っておりました。
先日は娘の通う幼稚園の音楽行事がありました。園児が大・小太鼓、カスタネット、トライアングル、ウッドブロック、タンバリンで合奏し、大人がピアノとヴァイオリンで伴奏をつけるように編曲されていました。曲目はドボルザークの「新世界から」でした。
変な言い方になりますが、聴いていた私には「新世界」としてきこえていたのです。(娘は後日オーケストラによる演奏を動画でみて「なにこれ?」と申しました。娘の中では「新世界」は編曲ヴァージョンがスタンダードなのですね)
行事の当日は、編曲者も来賓として来られ、てっきりというか、すっかりというか、編曲された「新世界」ではありますが、その世界にいざなわれた聴衆でした。
たしかに以前 “クラシック音楽は再現芸術だから…云々” と読んだことはあります。松下様の言わんとされることも、おそらくはこの意味かと受け止めております。
どうなのでしょうか?もし、オリジナル曲が編曲され、編曲された音を一音違わずに弾かれればそれは<クラシック音楽>として成立するということでしょうか?
そして、編曲者と奏者が同一人物の場合には<最早クラシック音楽ではない>となるのでしょうか?
また、時代によっても<クラシック音楽>の定義は変わり、編曲(アレンジ)後の曲への認識(評価)が変わり得ないでしょうか?曲や時代によっては、編曲後の曲もまた普遍的な一曲として受け入れられるということはないでしょうか?
あらためて<クラシック音楽>って何だろう?と思わされました。
さて<左手によるピアノ曲>は、ピアニストの舘野泉氏を通して知りました。もともと左手のための曲は第一次世界大戦で右手を失った奏者の存在から生まれたとか。
ならば…とふと思うのです。たとえばですが、すでに高齢社会を迎えている日本ですから、加齢とともに困難をきたし、オリジナル楽譜通りには弾かれなくなった愛好家も実は結構いらっしゃるのではないか?とか。
高齢社会のことはあくまで一例ですが、何かしらの事情によるニーズといいますか、アレンジされた楽譜を待っておられる方もいるのではないかと。
弾きやすく音を減らされたり増やされたりしたとしても愛好家の心のなかでは、<あの曲を弾く喜び>みたいなものは不変で、その人にとっては「月光」は「月光」に変わりなく、それはあのベートヴェンによるまさに<クラシック音楽>なのではないかな?…と、物を知らないだけに思えたりします。
松下様からのご返信をいただいた折にはもちろん感謝です。一方で、幅広く読者の皆さまからもいろいろ伺ってみたい思いもあり、長くなりましたが、あえてコメントへ投稿させていただきました。よろしければお願いいたします。
tomoko.yさま
初めてのコメントありがとうございます!
おっしゃってあること ある角度から見た時の問いかけとして既に正論だと思います。
こちらの考えていることを これからブログでお伝えしていこうと思いますので
ぼちぼちとお待ちください。
かといって私自身が答えを持っているわけではありませんし
あくまで一個人としての経験と考えにすぎませんが・・・。
とてもとても興味深い話ですね。
この問いに1つの正解というものはもちろん存在しないでしょうが、それでも私なりの考えは持っていまして、それは間違いなく松下先生から教わったことが大きく影響しているんですよね。この題材に対して今の松下先生がどう考えてらっしゃるか、楽しみに拝見させていただきますね。
麻尾 佳史さま
おひさしぶりです麻尾さん!
そう、僕もよくわからないので、今回書きながら(打ちながら?)いろいろ考えてみたいと思っています。
またゆっくりお会いしたいですね。