今回の記事を読まれた方には「こいつ遂にトチ狂ったか」と思われるかもしれないが
気にせず書くことにする
ひょっとしたら以前から薄々感じていたことかもしれないが
ここ一年くらい特に強く思っていることである
それはなにかというと「音符というものはそんなに大切か?」ということだ
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クラシックミュージシャンと呼ばれる人種は”音符”を介して演奏するが それは音楽全般からみれば実はマイノリティーであり どちらかというと「コード、記憶(慣習)、動作」などに基づいているものが多数を占める
つまり むかし大人達がよく口にしていた「音符を読めることが音楽をやるうえでの基本だ」というセリフは 私に言わせればクラシックというジャンルに限ったことであり 大半には当てはまらない
ここまでの話は 以前からこのブログ上で話していたことである
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作曲家の自演を聴いていて 彼らが出版譜と異なる《指使い》《アーティキュレーション》《テンポ設定》《アゴーギグ》そして《音符》で弾いているのに気が付くのは そんなに珍しいことではない
むしろ楽譜と違うことの方が圧倒的に多い
録音技術が世に出始めてからのものだから当然1900年以降のものであるが 時代の特徴と言っていいのか?
出版されるより前の録音であれば「それらはまだ作品として未完成の段階であり、その後出版によってその作品は完成された」と片付けるひともいるが 作曲家にとって作品というものは本当に<出版=完成>なのか? それは(作品を更新することに対する)ひとつのあきらめではないのか?
出版する時点の作品がたまたまそのカタチであっただけで その前後のカタチに全く価値はないのか?
こんな妙な疑問が生じるのはクラシックの世界だけだと ふと我に返ったりもする
ベートーベンやシューマン等のケースは また違うのだろうが それをそのままタレガやヴィラ-ロボス等に当てはめることに 私はどうしても違和感をおぼえずにはいられない
ここまでの話も 以前からこのブログ上で話していたことである
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先日 大分県由布院で開催されたギターとピアノのコンサート
クラシック界のレジェンド小林道夫氏との共演を終えた友人のギタリスト松本富有樹さんに 打ち上げの席で尋ねた
「小林先生はリハーサルでどういうアドバイスをくださるの?」
「そうですね、、、『今のは音符が見える』とか、、、」
そうなんだ・・・ 演奏に音符が見えてはだめなんだ
演奏に 音楽に 血が通うことが一番大切で
音符を弾くという作業は その手前の段階
音楽に血を通わせるため(その作品に”ふさわしい空気感”をまとわせるため)に 音符から はなれること
そして血を通わせるためには 書いてある音符を必ずしも正確に弾く必要はない ということ
音符はその曲を知るための手段ではあっても目的ではない ということを
作曲家たちの自演は教えてくれている
近頃ギターを弾いていて 私が一番楽しいのは こういった部分である
2022/04/09
ジャンルに関係なく、どんな方法、どんなプロセスでアプローチしようとも、演奏する時点で、演奏する曲が自分のものになっている…自分の中から出てきた曲だと感じられるくらい、曲と仲良くすることが大切かと思います。楽譜を使わない…使えない(笑)私の意見ですが(笑)。
木下尊惇さま
”曲と仲良くする”という言葉いいですね
《音符》というものは一見便利なようでいて ”感触”に変換する経験や技術が別に必要になってくる気がします