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1と100とそれ以外(その1)

 
少し前のブログ、「プレリュードNo.1(ヴィラ-ロボス)」の時にふれた”あること”について、ここではもう少し掘り下げてみたい。
 
作曲家が作曲し、世にむけて出版した状態を、その曲の仮に”100”だとする。
そして「今からあるきっかけをもとにして作曲を始めよう」という作曲家の心の状態を、仮にその曲の”1”だとする。
 
作曲というものが「1から100に向かうことで一般の音楽愛好家に対してひらかれてゆく行為」だと考えた場合、演奏にたずさわる人間は「まず100に触れ、1に向かう」という作曲家とはおよそ逆の過程を辿ることによって、その曲に散りばめられた様々なアイディアやひらめきを体感することになる。
もちろんこれはクラシックのような《音符をもとに音楽する状況》に限った話だ。
 
100の世界(出版された作品)でなにが起こっているかを深く把握するには、100の世界だけと関わっていても一向に広がらない。
18年前、濱田滋郎先生の紹介状を手におとずれたリオのヴィラ-ロボス記念館。
館長のトゥリビオ・サントス氏から直接に戴いたヴィラ-ロボス本人の作曲スケッチコピーは、100の状態に至るまでの途中経過、すなわち”50”や”80”の状態であり、そこにはさまざまな可能性をたのしみ(くるしみ?)ながら試行錯誤している生身の人間ヴィラ-ロボスの姿がしっかりと刻印されていた。
 
最近はポップスやロックの世界においても”往年の名曲”のデモ音源などがYou Tubeで簡単に聴ける時代である。
それこそ10代のころから親しんできたビリー・ジョエルやレッド・ツェッペリンの名曲のデモ音源を数年前 You Tube で耳にした時には愕然としたものだった。
LPで発表した音源を仮に”100”だとすると、そこには”10”とか”30”くらいのものもゴロゴロある。
 
で、なにがショックだったかというと、バンドをやっていた経験上その素材程度の楽曲クオリティであれば自分なら絶対ボツにした、、、だが彼らはそこになんらかの可能性を見い出し、その素材を捨てることなく最終的に素晴らしい曲として作り上げた、、、その”見立て”と”発展させる能力”に対して、自分との間に圧倒的な差を感じたのである。
LPやCDでいわゆる”100”の状態だけを見せられ続けてきた私は、彼らと自分との圧倒的な差は、元の素材を産み出す力、いわゆる《作曲能力》だと長年思い込んできた。だがそういったデモ音源によって明らかになったのは、差は《作曲能力》というよりも、素材をころがしてゆく《アレンジ能力》のほうだった、、、ということなのだ。
 
そういった誤解が”100をいきなり産み出す能力を持った(かのように見える)人々”に対する尊敬、崇拝、信仰につながってゆくのは必然である。
ネット社会になる以前は情報の発信元がメジャーに限られていた為、権威を守る事が出来ていたひとたちも、人間的舞台裏が近年みるみる可視化されてきた。
この部分を従来のやり方で守ろうとするのは、時代の流れから言っておそらく徒労に終わることだろう。
 
「社会の意識や技術が育つため自分にはなにが提供できるのか?」
「自分が能力的に社会から超然としているのではなく、社会とともに歩いてゆく覚悟があるか?」
つまり能力の切り売りではなく、昭和の頃のように神秘のベールに隠すでもなく、周囲の人のためにその能力を惜しげもなく提供できるか、、、その”覚悟”がメジャーにも問われているのではないか?
そんな気がするのだが、、、
 
(つづく)
 
2020.6.10.

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“1と100とそれ以外(その1)” への2件のフィードバック

  1. いけしん より:

    そんな気がします。

    • ryuji より:

      いけしんさま
      おお、巨匠初コメントありがとうございます!
      (簡潔なおことばで巨匠度さらにアップな感じ、、、)
      ongaku ”Goya”のオープン、おめでとうございます!!
      これからたのしい音楽空間を一緒に作ってゆきましょうね
      よろしくおねがいします

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