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1と100とそれ以外(その2)

 
作曲家もとりあえず出版という形で”100”を世に出したはいいが、その後も本人の中でその曲が熟成しつづけ、その後”120””140”に変化し「このカタチで改訂版として世に出したい」と思うこともあるのではないか?
つまり作品を更新し続けたいという欲求、、、
 
そしてそれとは別に、ある作品を発表するとき一種類に固定せず、たとえば”版A””版B” ”版Y”など一度に複数の版を同時に世に出したい作曲家がいても全然おかしくない。
 
古楽器的見地に立つなら、そもそも”80”が”100”や”120”に変わるのは《変化》であり《進化》ではない。作品に関してもおそらく同じで”80”が”100”より素晴らしい場合もあるし、さらに後の時代から振り返ったとき”120”が蛇足にみえることも当然ありえる。
 
A.バリオスの場合、本人が決定的な”100”を世に出さなかったため、あるいは”100”を残すことに執着しなかったため、結果さまざまな版が残ることとなった。
このことはわたしにとっていろんな面で興味深い。
 
クラシックのギタリストやピアニストが、私から見て”100”を重んじ過ぎる傾向に引っ張られている要因のひとつとして、やはり〈コンクール〉というものの存在がある。そこでは「”100”を如何に弾くか」ということが大前提とされているのだから。
だがそもそも音楽を日々楽しむ人間が、そんなストイックな業に縛られるいわれは本来ないと言えばない。
 
ここで大事になるのは、その作品の100だけと向き合ったひとが自由にやるのは「自由ではなくただの勝手な演奏」なのである。そこには作品に対する最低限の敬意が不足している。
だが100の前後、つまりその作品の”80”や”30”あるいは”120”を知識や経験をもって想像し、そこに演奏で踏み込むことは”勝手”ではなく、その作品演奏の真のリアリティに肉迫することにつながる。
 
これらのことは、近代以前のクラシック音楽が【その場でその都度、常に新しく生まれるため】に(これから特に)必要な栄養素ではないだろうか?
もちろんそれを実現して楽しむためには、作品に対する探究、敬意、同時代の演奏スタイルへの理解など幅の広い視野が求められる。
それらは楽しい作業であるし、そういった作品理解によって《クラシック演奏》は来たるべきあらたな次のステップに入ってゆくかもしれない。
 
(おわり)
 
2020.6.22.
 

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