唐人町ギター教室では、楽譜が読めない初心者の方からプロを目指している上級者まで、現役プロミュージシャンが丁寧に指導致します

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Mさんの思い出

 
今回のブログはチョー個人的な内容であることをまずお断りしておく。
 
 
わたしが小学生の頃、父はK大学の助教授(准教授という言葉は当時まだ無かった)を
していた。
その頃の父は、家にゼミの学生たちを集めては頻繁に酒盛りしていた。当時四十代半ばの父には
若い学生たちのエネルギーを受け止めるだけの体力がまだ残っていたのだろう。
 
 
酒が入ってくると、男子学生の何人かは松田聖子や松本伊代のモノマネを披露したり、私の
子供用ギターを手に、ジローズの「戦争を知らない子供たち」を唄ったりした。
そんな感じで我が家に出入りしていた当時のゼミ生の中のひとりに、Mさんというひとが
いた、、、
 
 
Mさんは水泳が得意だった。
私が小学校にあがって初めての夏休み、ふたつ上の兄(当時小3)が泳ぎが出来ずに困ってる
のを見かねた父が
「うちの息子に泳ぎを教えてやってくれないか?」
とMさんに頼み込んだらしい(この経緯は、つい先日初めて知った)。
事のなりゆき上、兄だけでなく、わたしも”ついで”の特訓対象に含まれることになり、それまで
単なるゼミ生のひとりにすぎなかったMさんが、我々兄弟の中で急激に巨大な存在として、
浮上してきたのだった。
 
 
今振り返ると、Mさんは絵にかいたようなコテコテの”九州男児”。
粋で快活で、とにかくカッコよかった。なにより小学校低学年の我々兄弟に対し、真正面から
向き合ってくれているのがちゃんと伝わってきたのだ。
しかも(車を運転出来ない)うちの両親とは違い、いつも我々兄弟を車で颯爽と迎えに来て
くれたところも大きな魅力だった(筆者注:母はその何十年後かに根性で免許を取得。ちなみに
私はいまだに運転できない)。
 
 
ところがこのMさんの水泳の指導がハチャメチャだった、、、。
Mさんの家の目の前に某私立大学があったのだが、そこが夏休み中なのをいいことに、柵を
乗り越えてプールに忍び込むところから始めなければならないのだ。
侵入後はもちろん我々三人の貸し切り状態。さすがにもう時効かな、、、。
 
 
兄の指導がメインで、その合い間に私の練習相手もしてくれたが、これもハチャメチャ
だった、、、。
私の手をとってバタ足練習をしていた時のこと、プールのど真ん中にさしかかった瞬間、なんと
Mさんはいきなり私の手を振りほどき、ひとりプールサイドに泳いでいったのだ。
大学のプールのど真ん中に置いてけぼりにされた”泳げない小1のわたし”は、まさに
「太平洋ひとりぼっち」状態。しかもプールサイドで腰かけて兄とふたり笑ってこちらを
見ている様子が、溺れて浮き沈みする水面の狭間から、かいま見えるのだ。
その後は覚えていない。頃合いを見計らって、たぶん助けに来てくれたのだろうが、、。
 
 
ある日、プールの帰り「ミカン狩りに連れてってやる」とMさんが、車で向かったのが、
山の麓にある夏ミカン畑(もちろん人の畑)。我々兄弟が罪のない笑顔で持ち帰った大量の
夏ミカンを見て、うちの両親もさすがに苦笑いしていた。これももう時効?
 
 
その時期、自分がためたお小遣いで初めて買ったドーナツ盤レコードが沢田研二の「勝手に
しやがれ」だった(ここは同い年の鈴木大介氏と一致している)。
ジュリーがその時期の私のヒーローだった。プールの行き帰りの雑談の中でそれを知った
Mさんは「俺もジュリー好きぜ。よし、俺が唄っちゃる」。
運転しながら「かべぎわに~ねがえりうって~♪」とキゲンよく唄いはじめたMさん。
次の瞬間、私の口から反射的に出た言葉は「もういい、もういい」。
小1からの本気の拒絶に「なんや、おまえ、せっかく俺が唄っちゃりようのにから!」と本気で
怒り始めたMさん、、、。
うしろの席で笑い転げていた兄は、その件を夕餉の時間に、微に入り細にわたって両親に報告
していた。
 
 
ひと夏の特訓成果があって、夏休み明けの学校から兄は鼻高々で帰ってきた。体育の授業で
「まっちゃんが泳げるようになっとる!」とセンセーションを巻き起こしたらしい。以来、
兄はスイミングスクールを経て中学では水泳部、高校では水球部、大学ではボート部、就職は
T海上火災と、まさに水街道まっしぐらの人生を歩み続けている(最近は釣りに凝っている
みたい)。
 
 
破天荒という言葉がピッタリなMさんだったが、大学卒業後はN火災海上に就職され、東京、
アメリカ、イギリスでお仕事をこなし、三人のお子さんに恵まれ、退職後の現在は、お孫さんも
いらっしゃることを母から聞いた。
生前の父に対しては礼節を重んじた姿勢を一貫して保ち続けてくださったようだ。数年前、
父の四十九日に際し、東京からわざわざお越しになり、仏前で大泣きされたことも母から
聞いた。
 
 
私と兄にとってMさんは、昭和の九州男児であり、とてもかっこよく、そしてハチャメチャで
しかし礼節を重んじ、仕事もバリバリこなし、家庭も大切にする(まとまらないなあ、、苦笑)
つまりは”あんな大人になりたい”という見本であり、あこがれだった、、、。
 
 
 
しかしなぜに今回こんなチョー個人的な思い出を書き記すのかって?
前回ブログでご案内した、今秋9月28日の主催イヴェント『ギターは今日も鳴り響く』になんと
お見えになるらしいのよ、Mさん!(実に40年ぶりの再会)
演奏とは全く別種の緊張が私を襲う、、、。
これは唐人町ギター教室はじまって以来のピンチ、、、もとい、試練と言えるのではないか?
 
あなたな~らどうする~♪
 
2019.8.11.
 
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“Mさんの思い出” への4件のフィードバック

  1. より:

    当日は多分行けませんがMさんには呉々もよろしくお伝えください。

    • ryuji より:

      兄さま
      了解です(‘◇’)ゞ
      肖像権侵犯すみません。

  2. S.Hongou より:

    はちゃめちゃ人、よいですね、なんともあったかい(暑苦しい?、今の時代的にはNG?)
    子ども時代に、親以外の係わり、すごく面白く大事だと思いました。
    私事ですが、小学校はバス通学で停留所前には「購買店」がありました。
    夕方四時も過ぎれば、おいちゃん達がカップ酒や枡酒、缶ビールで角打ち(店先の立ち飲み)をする。
    今の時代だと「嫉まれる」ような人が、「あの人は車にくわしかけん」「人当たりがよかけん」で、社会のなかでそれなり居場所のある時代でした。
    はちゃめちゃなMさんも、愛されるお人だったにちがいないと、部外者ですが、思いました。
    「不寛容」が世の中を腐らせるよう伸縮していますが、折れずにいたいと思います。
    素敵なお話をありがとうございました。

    • ryuji より:

      S.Hongouさま
      ありがとうございます。皆様おひとりおひとりの中に、きっとこういった個人的体験はおありだと思います。
      しかしこういった話の温度って意外と伝わるのが不思議ですね。
      ”個人的”を突き詰めると、案外ポコッと”普遍的”に突き抜けたりするのがおもしろい。

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