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ポンセ・イヤーに思うこと(疑似バロックの現代的あり方について)~その2

 
暴論の前に、、、。
私が前回から文中で使っている”疑似バロック作品”という言葉について一言。
「バロック時代の作品である」という前提のもと作られたこれらの曲と、近代の作曲家が
「過去のヨーロッパ舞踏曲に憧れ、あるいは形式やリズムを借りつつも自由に創作した」曲とは
私は区別して考えている。(前者の例としてM.ポンセ『イ短調組曲』『バレット』、F.
クライスラーが作曲した”プニャーニのスタイルによる諸作品”など。
後者の例としてA.タンスマン『サラバンド』、A.ホセ『メヌエット』、M.ラヴェル『ハイドン
の名によるメヌエット』など。)
 
 
作曲家が「素敵な作品を作ろう」とエネルギーを注いでる点ではどちらも同じだが、両者の間の
根本的な性質の違いというものが、弾けば弾くほど私の中で大きく膨らんでいくのをどうする
ことも出来ない。どちらが良い悪いとかいう話でなく、ただ”違う”という話である。
 
 
”疑似バロック作品”の扱いが一筋縄でいかないのは、1900年代初頭から現在までの間に、
古楽研究が飛躍的に進み、バロック音楽およびその演奏法に対する知識、意識に、当時とは
あまりにも大きな差が出来てしまっていることが挙げられる。つまり現代の眼で1900年代
初頭の疑似バロック作品を見ると、例えば「この部分はどうみてもバロックじゃなくロマン派
だろう」「ヴァイスのスタイルと言ってるが、ヴァイスでこの部分はあり得ない。むしろスカル
ラッティじゃない?」みたいな話になるのである。
現代の眼で見た時、その辺のことは”ご愛敬”で済ませるのも必要な部分だと思うが、大切なのは
現代の私たちがそれらの作品にどのようにアプローチするか、であると思う。
 
 
ここで作曲者ポンセの感覚を想像してみたい。
自分が創作した”疑似バロック作品”を演奏するのは、ほかならぬA.セゴヴィアである。
ギタリストに関する他の選択肢は、おそらく作曲者にとって当時無かったはずだ。
セゴヴィアはルネッサンスからバロック、古典、ロマン派、近代すべての時代のヨーロッパ
音楽を片っ端から《ロマン派スタイルのみ》で弾ききったヒトである。
自分の作品が、セゴヴィアの演奏で命を吹き込まれた時どのようになるか、ポンセはよ~く
分かっていたはずである。
 
 
そこで本日の暴論である。
バロック作品のつもりで作ってはみたが、作曲者、演奏家共にロマン派的要素が刻印された
これら出来損ないの名曲たちを”疑似バロック作品”という別ジャンルとして認めてあげよう!
という”上から目線満載”の提案である。
つまり「セゴヴィアのようにゴテゴテのロマン派スタイルで演奏することで、これらの曲は
真価を発揮する」とひらきなおるのだ。
すっきりするよ(笑)。別ジャンル、別ジャンル、、、。
 
 
バロック弾きたいヤツは、バッハとかヴァイスとかムルシアとか弾けばいいじゃない。
ポンセにそれを求めること自体、入り口が間違ってたってことなの!
(コカ・コーラに健康を求めてカロリーオフに走るように、入り口そのものが間違ってんの!)
たとえば戦時中、戦後すぐの頃の、日本におけるタンゴの”愛され方”ってあったよね。それって
現代から見ると勘違いも多かったかもしれないけど、アルゼンチン本家とは違う別ジャンルの
音楽として見たとき、立派な文化だと思うのよね。
 
 
”文化”というものが日々の積み重ねの中で堆積していくものだとしたら、本来の目的と違う
ところで成立したとしても、それが繰り返し愛され、積み重ねられたら、それは”文化”と呼べる
ものなのよ。もちろん文化にも《いいもの》《よくないもの》はあるとおもうけど。
”文明”というのは持ち運びが可能なもので、”文化”というのは本来それが生まれた土地から切り
離せないものだ(と、武満さんが言っていた、、、)。大切なのはよその土地の本家をそのまま
持ってくることではなく、その影響を自分の土地にどうフィードバックさせるかではなかろう
か。
 
 
話がだいぶ逸れてしまった。
そうそう、、、”疑似バロック作品”へのアプローチね。
私が出来ないこととして他者に期待するものとしては、、、
 
*ポンセの未完の作品(ニ長調組曲「ジーグ」)を現代の眼と知識で補筆し、蘇らせる
”鈴木大介氏がやってるようなアプローチ”
 
*古楽器奏者でS.L.ヴァイス、A.スカルラッティなどを専門的に研究した人が、ポンセの
”疑似バロック作品”をアレンジし、”よりヴァイス的に、よりスカルラッティ的に古楽器で演奏
するようなアプローチ”
 
特に後者はポンセの書いた音に和声的、音型的変更を施すことすら辞さない演奏の登場を
期待する(古楽界からギター界へのフィードバックとして期待)。
これだけの可能性があるジャンルだとすると、”疑似バロック作品”も捨てたもんじゃないね。
 
(おわり)
 

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“ポンセ・イヤーに思うこと(疑似バロックの現代的あり方について)~その2” への3件のフィードバック

  1. 麻尾 佳史 より:

    松下先生 いつも楽しく拝見しております。ちょうどポンセのイ短調組曲に取り組んでみたいなぁと思っていた私にとてもタイムリーな内容でした。そこで質問です。
    この手の楽曲は、どのように楽譜を当たるべきだとお考えでしょうか。「疑似バロック」曲に限ったことではないのですが、原本や原典に当たるものがどれか、どこに手が加わっているのか、と言う内容と向き合うには長い道と大きな壁を感じています。そのため、歴史のある曲や編曲物は、譜読みはしても人前発表を躊躇する状況が私はここ数年続いており、結果として「原本」がはっきりしている近現代以降の曲にレパートリーが狭まっていることを、残念に感じています。
    と、ここまで書いてから、コメント欄で返事をもらうには大きな内容を質問しようとしているように思ってきました・・汗 ずばりな回答は難しくとも、何かヒントをいただけると幸いです。 
    たとえば無理やり質問を端的にするならば、端的にこの曲いいな、弾いてみたいな、と思った後の第一歩としては、どのような楽譜を入手すべきだとお考えでしょうか。最初から複数の楽譜の比較検証を想定すると、その重さに押しつぶされて端的な良さを味わえなくなる本末転倒な自分がいます。
    麻尾

    • ryuji より:

      麻尾 佳史さま
      私の大きな独り言をしっかり受け止めてくださって、とても嬉しく思います。
      そしてご質問の内容およびお気持ちよ~くわかります。複数の版が存在する楽曲の《版の選択》。これは曲と自分との付き合いの”その後”を決めると言ってもいい重要事項だとは思いますが、ここはひとつ直感や出会いを信じて、あまり気にし過ぎず、とにかく飛び込んでみることでしょう。
      個人的な告白をしますと、20代~30代までは《版の選択》は私にとってかなり重要な関心事でした。でも今は”演奏の魔法”の方にもっと関心があります。
      話の一般化はあまり血が通わないので、ふたつの体験をお話します。現在の私を形作っている重要な体験です。
      私が心から尊敬するシャンソン歌手がいます。私の活動初期から現在まで非常に影響を受けた方です。人情味に欠ける私でさえ、その歌にこれまで何度心を震えさせられ、涙を流してきたことか(誇張ではありません)。
      潔癖でストイックだった30代のある日、彼女が唄ったある感動的な歌について質問を投げかけてみました。「誰の作曲ですか?」
      いつもの誠実さで彼女は私にこう返しました。
      「ごめんなさい、しらないの」
      10代後半からM.M.ポンセの『主題・変奏と終曲』を練習しはじめ、コンクールや来日ギタリスト、国内ギタリストのマスタークラスのたびに演奏していました。したがってこの曲でレッスンを受けたギタリストの数は相当なものです。次第に私は情報の多さや多様性の問題にぶつかりこの曲が弾けなくなってきました。先生方のアイディアをツギハギしただけの”最低”よりもっと面白くない演奏です。とどめはポンセの原典版を入手した時でした。長いこと夢みていた念願の”ブツ”だったにもかかわらず、、。原典を参考にただひたすら室内楽的に、アカデミックに演奏しようとした結果「ギターでその音楽を弾く喜び」が完全に消え去った演奏の出来上がりです。
      わたしはそこから再び”ギター演奏の魔法”を取り戻すための”歩み”を始め、現在に至ります。

  2. 麻尾佳史 より:

    松下先生
    無茶ぶりな質問に的確なエピソードをありがとうございます。たいへん勉強になります。
    松下先生やそのシャンソン歌手の方のように、自身の感性を演奏の中核とする根底には、そこに至る葛藤や逡巡があるようにも思います。
    とりあえず直感を信じて一歩を踏み出し、流れに任せて葛藤しながら、自分なりの楽譜とのつきあい方を勉強してみることにします。
    ギターでその音楽を弾く喜び、がなければ原本や聴者といった議論の前の話ですね。
    ややこしいコメントへの早速のご返信、誠にありがとうございます。
    麻尾

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