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ふたたび『天才論』、、、

 
将棋界の藤井聡太四段の快進撃は凄まじい。
 
周囲の大人たちが騒ぎ過ぎの感じがしないでもないが、棋界の活性化という面では彼のような
存在の役割は非常に大きなものであろう。「歴史的快挙」「記録更新」を彼に委ねて、それぞれ
が夢を見るのはそれぞれの勝手だが、せめて彼の邪魔にだけはならないように、静かに騒ぎたい
ものである。
 
 
「天才」という言葉は個人的には嫌いである。
<ひとの努力>というものに対し、否定や諦念といったニュアンスが含まれているからだ。
ただ世の中における<そういったものの存在>は、私自身これまで何度か遭遇はしてきた。
かの人たちに共通するのは、「イメージしたこと」「感じたこと」を具現化あるいは運動に
置き換えるときの「実現するまでの時間」すなわち試行錯誤の少なさである。
言ってみれば、イメージと身体感覚の間の齟齬がない。
私の場合はそこでいつもモタモタしたり、なが~い試行錯誤に入るのだ。
 
 
天才はおおまかに分けると「発想の天才」と「身体能力の天才」の二つがあるような気がする。
両方兼ね備えている人もいるのだろうが、演奏の世界において「天才」と呼ばれる場合に
スポットが当たるのは、ほとんど後者の側面ではなかろうか。スポーツもほぼそうだろう。
科学者や映画監督は前者の側面が強いかな、美術やデザインの世界は両方かな、、、などと
いろいろ考えてしまう。
「演奏」「スポーツ」が後者だとするのは、<実践者としてのひと>に対し、<司令塔>の
存在が成立可能だからである。いわば先生、コーチなどといったアドバイザーの存在。
 
 
だから天才的身体能力を持った演奏者の場合、何が重要になってくるかというと、
「次なる行動に駆り立てる対象や目標をたえず設定できるか」
設定する<司令塔>の存在が無い場合は、自力で設定できるか、、、ということだと思う。
もっともこれは「天才」に社会的役割を与えることを前提にした場合の話である。
 
 
演奏面において「天才が天才として」力を発揮するのは、主にソロ(独奏)の世界において
である。
アンサンブルにおいてはそもそも天才性というものは要求されない。
他者の気持ちを理解しようとつとめ、音楽全体のサウンドに貢献することがアンサンブルの世界
だからである。
〈自分の意見〉〈他者の意見〉に対する客観性、および「引っ張るチャレンジ精神」「譲り合う
余裕」をそれぞれが持っていることが、充実したアンサンブルに必要な要素であろう。
 
 
「独奏コンクール」なるものが存在するピアノ、ヴァイオリン、ギターなどといった楽器の世界
でのみ、天才性というものは語られる。
「天才ベース奏者」「天才トロンボーン奏者」などの話題が世に出てきた時は、そのアンサンブ
ル能力というよりは、ソリスト(独奏者)としての側面にスポットが当てられた場合がほとんど
である。
ブラジルの7弦ギタリスト、故ハファエル・ハベーロのように「強烈なグルーブがアンサンブル
に貢献するようなケース」というのもないことはないが、、、。
 
 
将棋の世界は「相手が居てこそ」なので、やはりアンサンブルの世界である。
勝負に勝った者が居る一方で、勝者とのアンサンブルにより名勝負を作り上げた敗者の存在に
対する敬意も同時に払いたい、、、と過熱報道を横目で見ながら静かに思う「凡人マツシタ」で
あった。
 
2017.6.29.
 

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