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創造(クリエイト)について

 
ギターをレッスンしていて、時折<脱力>についての話になる。
<脱力>つまり力の抜けているさま、、、これを他人様に説明するのはむずかしい。
自分の身体の様子を確認しながら、相手の身体の状態をも推し量ることが求められる。
だが最も困難なのは、生徒さんに「今自分の身体がどういう状態か」に注意を向けさせること
かもしれない。
こちらがある瞬間をつかまえ、「それそれ!いまの!それですよ!」という動きに限って、
生徒さんの「無意識のなせる業」であって、再現が不可能だったりする(苦笑)。
何年も前のことだが、ギタリストの鈴木大介氏が「脱力!?抜きゃいいんだよ、そんなもん。」
と言っていたことがある。たしかに<そんなもん>かもしれない、、、。
だが日々レッスンする身としては、出来るだけ多くの人に身体感覚として納得していただける
ような説明の仕方をストックしておきたいものである。
 
 
「脱力、脱力」と思ったところで、力も全く入っていない脱力した状態では、実際ギターが
弾けるはずがない。要は曲の流れに沿って「必要な分だけ」力を使えたらよい、という結論に
なる。脱力と力みの間にあるクールな身体感覚について知りたい方は、私よりも長年にわたって
その感覚を追求し、手に入れているギタリスト、池田慎司さんにアドヴァイスを求められると
良い。
 
~「つくろう、つくろう」と思っても出来ない。
かと言って「つくろう」と思わなければ全然出来ない~
 
武田泰淳氏が創作にかかわる話の中でたしかこんなふうなことをおっしゃってた記憶がある。
この一見矛盾したもののすき間にある<真実>から、目を逸らすことなく向き合われた方だから
こそ、あれほどの業績を残されたのだろうな、、、。
というか、文学や絵画、音楽やスポーツなどにたずさわる人間(特にプロ)はそこを掘り下げる
ことが本来の姿というか、大切な社会的役割ではなかろうか、、、という気がする。
というわけで、今回私の考える「創造」ということについて、ささやかながら掘り下げて
みたい。
 
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料理、作曲、絵画、演奏、スポーツ全てにおいて「創作意欲」「創造的瞬間」というものは
常に<願い><あこがれ>に向かっているものであり、「何かに気付く喜び」をエネルギーに
しながら前進してゆく。(例えば料理において「このタイミングで塩を少し入れると、こう
なる!」とか、ゲームのある場面で「こういうクリアの仕方があったのか!」とか、、、)
 
 
ここで私は何が言いたいかというと、”作品を仕上げる、完成させる”ということがクリエイト
ではなく、その途中の過程における「気付く行為」が、じつはクリエイト(創造)の本質では
なかろうか、ということ。
「気付く行為」とは、それまでその人が持っていなかった、あるいは意識していなかった
<ある感覚>とつながること。そこが創作活動の中で、もっともクリエイティヴな瞬間である。
 
 
その後「気付いた事」を、自らの中に定着させるための<反復による確認作業>は、もちろん
必要なことである。
ただ多くの人は、それを「気付く行為」よりも楽なものとして捉えがちである。すなわち確認を
伴わない「漠然とした反復」に陥りやすい。
<反復による確認作業>においても、<気付く行為>の段階で得た「感動」を、その都度かみし
めながら進めていけるとよい。
そして最後に大切なのが、<確認作業>に見切りをつけ、次なる<気付き>に向け、飛び出す
タイミングと勇気である。
 
 
芸術や音楽、スポーツに携わることが必ずしも創造的行為とは言えない。
創造的かどうかは当然「どう取り組むか」で決まる。
だがそれらの世界に踏み込むのは、もちろんひとつのチャンスにはなり得る。言い換えれば
あくまで<ひとつのチャンス>でしかない。
日常の中にも創造的行為、創造的瞬間はいたるところに見られる。
例えば、日ごろ全く意識しない「自分の呼吸のリズム」に意識を集中させることが創造的行為で
ないと誰が言えようか。
部屋の模様替えの際、本棚をどこに配置しようかと考えを巡らせるときなど、その創造的瞬間を
存分に味わえばいい、、、。
 
 
最後に、音楽に携わるものとして、「演奏という行為」は創造的瞬間の宝庫だと断言して
この話をとりあえず一旦締めくくりたい。
 
2016.7.12.
 

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