先日、市川海老蔵主演の2011年の日本映画「一命」を観た。
これは1962年制作された仲代達也主演の映画「切腹」と原作は同じ(滝口康彦著『異聞
浪人記』)で、つまり二度目の映画化である。大まかなストーリーについては大差ないので、
ご興味ある方はこちら をどうぞ。
夜中に観るにはちょっとへヴィーな内容であった、、、。
しかし市川海老蔵扮する「浪人」と、役所広司扮する「井伊家の家老」の火花の散りあいは
見ごたえ十分だった(62年版では仲代達也と三國連太郎)。
音楽担当は坂本龍一(劇中、村治佳織さんのソロ・ギター演奏も入る)だが、62年版では
武満徹、、、。
結論としては62年版「切腹」とやたら比較しなければ、素直に味わえる作品だと思う。
以下あらすじを把握された方のみ対象とした文章で大変申し訳ない、、、。
切腹を志願して井伊家に転がり込んできた若侍に対し、「今流行りの狂言切腹に違いない」と
ある家臣が家老に耳打ちしたあたりから、家臣一同の憎悪と軽蔑が芽生え、結果若侍に対し
残虐な処置を施すに至る。
武士としての「倫理と誇り」を守るという名目のもとでは、それは正義と言えるのだろうが、
若侍の死後、井伊家に乗り込んできたもう一人の浪人(市川海老蔵)によって「武家社会」
「武士道」の持つ欺瞞が暴かれてゆく、、、。
映画を見ていた私は、正直、若侍が腹を切らされた時点では、たるみ切った武家社会の象徴でも
ある『狂言切腹』(太平の世に切腹を申し出ることで、その武勇を称えられ、家臣として召し
抱えられたり褒美をもらうことを【目当て】とする)に対し、井伊家のように「切りたいなら
どうぞ」と対処する藩があってもおかしいことではない、と思っていた。
つまりストーリー(ものごと)の表面だけを受け止めて、その時点で私が出した結論がそれ
である。
ところがもう一人の浪人によって、(実は彼にとっては娘婿にあたる)若侍が『狂言切腹』を
申し出るまでの経緯がつぶさに語られることで、このたびの事件の根っこが明らかにされて
ゆく。
根っこがさらけ出されたあとの、浪人の心の叫び「武士にはひととしての血はかよってない
のか!」が、私の胸に痛く響いた、、、。
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バングラデシュで大変な犯罪が起きた。
このたび巻き込まれた方々に心からお悔やみ申し上げたい。
日本人であっても、なくても、、、。
ひとの命を奪う非道なテロは断じて許してはいけない。
このたび起こってしまった残念なことから一歩前に進むために考えなければいけないことは何だ
ろうか?
被害に遭われた皆様の死を無にしないために考えなければいけないことは何だろうか?
絶対に勘違いしてはいけないことは、これは「宗教間の争い」などではない、ということだ。
テロとはあくまで「犯罪」である。
犯罪に対処する方法は「犯人を見つけ出して捕らえ、しかるべき法の裁きを受けさせること」
である。
国家間、宗教間で「漠然とした憎悪」を飛び交わさせてはいけない。
ネット上で煽られがちな「憎悪のエスカレート」に参加してはいけない。
テロとは絶対に許してはならない行為である。
だが根っこである「原因」に目を向けることは、テロをなくすために必要なことだ。
なぜ犯罪者たちは、自分の命を捨ててまで、自爆してまで、テロを行うに至ったのか?
先進国のマスコミのようにそれを「単なる洗脳」と片づけるうちは何も変わらないに違いない。
「原因を探ることはテロを肯定することにつながる」という意見こそ「破壊的な意見」だ。
もう一度問う。
原因は何だ?
痛々しい「表面」の「根っこ」は何だ?
2016.7.4.
ものごとの表面と根っこ
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