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なかなか結論の出ない話

 
タイトル通りです。ごめんなさい、、、。思うがままに書きます。
 
 
あるジャズの巨匠のCDを検索していた時、日本人が書いている興味深いライナー・ノーツが
あり、わたしの目を引いた。ちなみにその巨匠は現代においてビ・バップ・ジャズのスタイル
(1940~1950頃のジャズのスタイル)をつらぬきつづけている人で、彼を讃える
ライナー・ノーツには以下のような内容の文章が含まれていた。
 
 
《ここでは、突っ込んだ言及は、避けますが「変貌=進歩、進化」とイコールでくくれないのは誰でもわかるはず。要は、人間性の違いなのだと思う。要は飽きやすいか、そうでないか。結構このことは、ミュージシャンの音楽性の変遷を語る上で大きな部分を占めるのではないかと思っている。》
 
 
本質についてザックリと捉えやすい、興味深い指摘の仕方だと思った。こういう文章にはハッと
させられるし、好みである。
 
 
そこで、それに続く次の段階として「わたし自身のケース」「周りの人のケース」について考え
てみた。ところがそこからがなかなか大変だった。結論が容易に出ない。まあ別に急ぐことでは
ないし、必ずしも結論を必要とはしないのだが、、、。
 
 
 
クラシックミュージシャンの場合、とりあげるレパートリーの新旧(古典か現代か?等)が即、
演奏家の革新性、保守性につながらないところが面白い。
つまるところ、すごく保守的な「現代音楽」もあれば、革新的な「古典演奏」もあるのである。
ジャズの場合でもビ・バップを愛好するひとのほうがモード・ジャズ愛好家より(古いもの
だから)保守的だということにはならない。
 
 
 
「特定の巨匠の演奏スタイルを《伝統》として捉え、追体験することを愛する」のか、、
「普遍性にのっとった様々なアプローチの可能性を試す事で、作品をそれまでと違う角度から
照らす」のか、、
クラシック演奏家の仕事を再現もしくは再創造の芸術と考えるならば、前者を「保守的
(もしくは学習的)アプローチ」後者を「革新的(もしくは実験的)アプローチ」と呼ぶことに
なるだろう。
わたしはどちらも好きである。どちらか一方のスタイルに身を置いている訳ではなく、
このふたつのはざまを行き来する事で『活動の鮮度』を保とうとしているのかもしれない。
 
 
「飽きることだけが能力だった、、、、。/あきた瞬間ひょっくり思いがけないものになり
替わる。」(折口信夫)
 
 
冒頭にとりあげたライナー・ノーツのひとにせよ、折口氏にせよ、「飽きる」という言葉自体に
決して否定的な見解をもっていないところがおもしろい。
ただ表面上は「飽きないひと」に見えるが、内実は「その世界に身を置きながらそのことに
対して怠惰なだけ」という場合も実際はかなり多い気がする。
それは意志を持って「変化しない」というのとは雲泥の差である。
一方で「動き回ること」そのものに飽きる事だってありうる。
こう考えるほど、自分で言っておきながら(笑)「保守」「革新」などという定義そのものが
空虚で馬鹿馬鹿しいものに思えてくる。
 
 
わたし自身のことを言えば、作品そのものに「飽きる」ことはない。
「飽きる」とすれば自分のアプローチの貧困さが原因となっている。
つまり作品に向ける視点のヴァリエーションの少なさや作品そのものを信じる力、愛する力が
不足しているわけで、これは作品に向かう側の問題なのである。相手(作品)が原因ではない。
 
 
今回の話できちんと整理しておきたいのは、「動き回ること」イコール「飽きている状態」
「動かないこと」イコール「意志を貫いている状態」では必ずしも無い、ということ。
 
逆もしかり、である。
「動き回ること」イコール「創造的な状態」
「動かないこと」イコール「怠惰な状態」とは必ずしも言えない。
 
ミュージシャンに大切なのは、あくまでクリエイティヴな目的で「動かないこと」
クリエイティヴな目的で「動き回ること」。
そして「意志でもってそれらを選択する」こと。(やっと私なりの結論出た~!)
 
 
なぜならミュージシャンが(音楽産業とは関係ない面で)世の中に貢献できるとすれば、それは
「人間のクリエイティヴな姿」
を見せることに尽きる、と思うからである。
 
(おわり)

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