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「暗黙」について

 
「暗黙」というものに対しては以前にも書かせていただいたことがある。
最近またこのことについて考える機会が多いので、テーマとして再度とりあげたい。
 
 
いきなり結論だが、わたしは「暗黙」というものが嫌いである。
 
「暗黙」は他者との関係のなかで発動されるものであるが、暗黙行動の上辿りついた結果という
ものは肯定あるいは美化される傾向が強い。
「打ち合わせることなく難局を乗り越えた」「こなせた」ことに一旦味をしめてしまうと、
(自分も含め)人間は基本的に怠惰なので、次からもその「暗黙」という便利なものに依存して
しまうのだ。
そして<事前に他者と話し合いコミュニケーションをとる>という面倒を避け、「あのひとは
分かっているはず」とお互いが思ってしまうことで、<気持ちの些細なすれ違い>という
関係崩壊の種子が撒かれることになる。
 
 
 
「暗黙」が仕事のクオリティを低下させる危険性についても考えてほしい。
仕事の中で「暗黙」を発動した時というのは、先程も述べたように仕事としてただ<こなした>
という感触が強いのではないだろうか。
そしてここが肝心なところだが、「難しい局面を乗り切った」ということと「仕事そのものの
クオリティ」の問題がそもそも<別次元のはなし>だということを見失っていないだろうか。
 
 
要は「暗黙発動はあくまで<非常手段>であり、困難な局面でやむなく使うべきものである」
というのが私の個人的意見である。
やはり普段のコミュニケーションは<相手の意思を確認し、自分の意思を表明する>という
手続きを(面倒臭がらずに)きちんと踏むべきである。
仕事相手だけでなく、友人や家族に対しても、、、。
「暗黙」という言葉の奥には、本質として<他者に依存する甘えた根性>が透けて見えるから
わたしは嫌いなのである。
 
 
それでいて<やむをえない場合>のみ発動されれば、「暗黙」というものは人間関係のなかで
本来にふさわしい輝きを放つのではなかろうか。
 
 
2015.3.26.
 

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