唐人町ギター教室では、楽譜が読めない初心者の方からプロを目指している上級者まで、現役プロミュージシャンが丁寧に指導致します

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ソロとアンサンブル(その1)

 
「クラシックギター界」の特殊性はたくさん挙げる事が出来るが、そのひとつが敢えて
言うならば“ソロ演奏中心主義”の伝統である。
 
世の大概のギター教室は、生徒さんにまず「ソロ演奏の能力」を高めてもらうよう指導
する(その点ピアノと似ているかもしれない、、、)。しかしピアノとギター以外の楽器
は大半がアンサンブルを前提とした楽器である。管楽器の世界は良くは知らないが、ブラ
スバンドからその道に入る人が多いと聞く。入口から既にアンサンブルである。ヴァイオ
リンの世界でも子供の頃から教室に通ったりして一人で腕を磨いたとしても、発表会では
“共演者”(敢えて伴奏者とは言いたくない)として、ピアニストがいる。やはりアンサン
ブルである。
ソロとアンサンブル、起源的にはどうなんだろうか?
これはソロのほうが先にあったのでは、という気がするが、、、。
 
 
 
プロへの登竜門としてクラシックギター界には全国津々浦々さまざまなコンクールがある。
ところがコンクールで審査、評価されるのはいわゆる「ソロ演奏能力」である。
中にはひょっとしたら、ソロ演奏は苦手だがアンサンブルの上手い奴だっているかもしれない。
また人前での演奏は苦手だが、人に教えるのが得意な奴だっているかもしれない。
編曲が得意な奴だって、コンサートの主催に能力を発揮する奴だっているかもしれない。
しかし「ソロ演奏能力」しか当分は問題にされない。
 
 
 
2000年以降だと思うが、アンサンブル活動ばかりやっていてソロがきらいな時期があった。
自分のはもちろん人のソロ演奏さえも聞きたくなかった。
ソロコンサートの客席の雰囲気が、コンサートが進むにつれ次第に“音楽そのもの”よりも
“演奏家個人に対する応援”の様相を帯びてくる事に耐えられなかった。
自分のソロ演奏の後「松下さん、ギター上手いですね」と言われるとがっくりしていた。
当時の私は演奏後「あの曲いい曲ですね」というお客様の言葉だけを期待していた。
曲の良さを伝える事が我々音楽家の使命だ、という意識は当時も今も私の中で変わっては
いない。
 
 
 
 
昨年2012年の事だった。
私の尊敬するフォルクローレミュージシャン木下尊惇氏とツアーで移動中、ふと頭にわいた
疑問を投げかけてみた。
「A.ユパンキの曲は一般のフォルクローレの楽曲と何か感触が違う気がするんですが、
フォルクローレミュージシャン達はユパンキの曲をアンサンブルで演奏することは無いの
ですか?」
その年のツアーでユパンキの名曲「インディオの道」の見事なソロ演奏が木下氏により披
露され、耳に焼き付いていて思わずそんなことを口走ったのだろう。
木下氏は答えた。
「全く無い事はないですが、そうですね、、、今度やってみましょうか。」
 
 
それから数ヵ月後、氏は約束を果たしてくれた。
ケーナ、シークの世界的名手、菱本幸二氏と木下氏の歌とギター、そして私のギターによる
A.ユパンキ「インディオの道」三重奏、、、。
リハーサル、本番と演奏を繰り返すたびにじつは私にとっては驚きだったことがある。
複数の人間で演奏されるユパンキの曲からは“ユパンキ色”が抜け、いわゆる“普通のフォル
クローレの曲”という感触が浮かび上がってきたのである。
つまり私の感じていた「ユパンキらしさ」とは彼の“ソロ演奏としての感触”だと気付いた
のである。
ユパンキのソロ演奏を聴いている人は、いわば「ユパンキの演奏するフォルクローレ」を
聴いているというよりは「フォルクローレを演奏するユパンキ」を味わっているのではな
かろうか。同じようにバーデン・パウエルのソロ演奏を聴いている人は、「バーデンの演
奏するサンバ」というよりは「サンバを演奏するバーデン」を味わう事を求めているので
はないか。(えっ?そんなの当たり前?ボク気が付かんかった、、、。)
 
どっちにしろこの体験によって「ソロ演奏の意義」というものがはじめて私の中でハッキ
リしたのである。ソロ演奏でしか表現できないもの、、、。それは聞く人の“孤独な心”に
そっと寄り添う“何か”である。
 
 
(つづく)
 

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