唐人町ギター教室では、楽譜が読めない初心者の方からプロを目指している上級者まで、現役プロミュージシャンが丁寧に指導致します

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『緑の木陰にて』(その2)

 
CMのコーナーです。
 
年明けの1月10日(金)福岡市中央区電気ビルみらいホールにて開催の
《New Year Music Festival in MIRAI Hall vol.1》
というイヴェントに出演させて頂きます。
これはジャズシンガー桜井ゆみさんのプロデュースで、福岡と東京でご活躍のミュージシャン
によりステージ構成された音楽フェスティバルです。ジャズギターの名手、田口悌治氏を筆頭に
素晴らしいジャズミュージシャンが多数ご出演のなか、他ジャンルからの異分子要素のひとつと
してこの度お声掛け&投入されたアウェイ松下、、、。
クラシックギタリストに囲まれてるよりリラックスして演奏に臨めるのは何故だ?。とりあえず
異物感ごりごりでいきたいと思います(なんだそれ)。
 
いろんな組み合わせでステージに立たせて頂きますが、《全員演奏》以外でドラムとの共演が
無い為(余談だがドラマーの上村さん、素晴らしい!)どちらかというとノリノリ曲よりも
バラード担当の松下、、、。今回のキャッチコピーは
”盛り上がらない曲は俺に任せろ!”
よし、これでいこう。
ホール内の客席はフラット状態でテーブルと椅子が並び、なんとホール後方ではアルコールと
おつまみ料理を販売。ホール内で飲食しながら聴けるのだ!
つまり400席のホールがライブハウス状態なのです。
2020年1月10日(金)電気ビルみらいホールにて開場17:30/開演18:30
チケットお問い合わせは【唐人町ギター教室092-733-6240】松下までどうぞ。
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早速の第二回目である。こういうのは(料理と同じで)間をあけすぎると冷めてしまうから。
 
『緑の木陰にて』だが、曲の内容と関係なく、私にはずっと気になっていることがある。
carl-henze[1]
作曲したヘンツェはドイツ人。大正時代にマンドリン合奏の指揮者として来日した経歴もある
とか。なのになぜ曲のタイトルは英語なのだろう?そういえばある教本には作曲者が
Vahdah Olcott-Bickford (1885~1980)と表記されているものもあった。
vob_young_pic[1]
もちろんどちらかが誤りであろうが、アメリカギター協会を立ち上げ、クラシックギターの普及
に尽力した女性ギタリスト、ビックフォードとの間に交流などがあり、その為そのような間違い
が起こったのか?(あくまで推測の域)
ちなみに推測ついでだが G.C.リンゼイの『雨だれ』というジャンル違いの曲をクラシック
ギター曲集に最初に編入したのは、おそらくこのビックフォードだと私は踏んでいる。
 
ヘンツェの他の作品を調べてみると、ドイツ語タイトルのものもあれば、英語タイトルのものも
ある。やはりこれは英語でタイトルをつけるだけの人間関係や家庭の事情がヘンツェ本人には
あったということだろう。あとは研究家の論文待ち、、、
ちなみにヘンツェについて詳しいデータをあげてある方がいらっしゃるので、ご興味ある方は
ぜひこちらをどうぞ(こういった資料はありがたいな~)
 
 
それでは場面Bを見てみよう。ここでは《ミーーファソ》《ファソラシー》というふうに
”上がる音階”がのっけから出てくる。場面Aとのコントラストである。この”コントラスト”と
いう手法が、ヨーロッパ文化である西洋音楽において重要な要素であるから意識した方がよい。
同じ”上がる音階”でも、この《ミーーファソ》と《ファソラシー》を同じテンションで弾いたら
あかんがな(これは主観的意見)。声楽家になったつもりで声に出して歌ったらわかるはず。
ここでは歌唱力が問題ではなく、呼吸とテンション感を知ることが目的なので、へたに
歌っても全然かまわない。《ミーーファソ》よりも《ファソラシー》の方がよりのびやかに
広々と歌いたくならない?
二段構えでBの二小節目に”しっかりと”飛び込む理由は、二小節目の伴奏が(二分音符単位の
ベースが四分音符単位で連打になるなど)一小節目よりもリズミックに躍動しているからで
ある。この一拍単位のミのベース連打(ビート感)のエネルギーで、三小節目のB7(ドミ
ナント)に私だったら飛び込みたい。
 
 
場面Bも二小節ずつの起承転結に分ける事が出来るが、ここで問題となるのは二小節目アタマ
二分音符《シ》の後だ。メロディーは3拍目《ソ》に着地して終わるのか(つまり二小節目
最後の《ラ》を次へのアウフタクトとして感じるのか)、それとも《ソーーラ》という付点
リズムのメロディーとして歌う(演奏する)のか、、、
それによって演奏の感触がずいぶんかわってくる。両方試してみてね。
 
 
三小節目”承”は”起”に対し、返事をするかのように”下がる音階”が登場する。
問い(起)と応え(承)は、作曲者の指示がない状態では、問いのほうが力を残して終わり
応えの方が穏やかな心の状態で終わるだろう。
”転”は《ソ》の連打が目を引く。ご自分がフルート奏者だったらどういったニュアンスで吹くか
想像してみよう。ちなみに私の場合、一拍目ウラから三拍目オモテに向かってエネルギーを
移動させながら弾くと思う。スタッカートかポルタートかはその日の気分で変えてみるかも
しれない。もしも”転(Bの5小節目)”一拍目オモテが、付点四分だったらニュアンスはどう
変わるだろう?つまり《ソソソソ》でなく《ソーーソ》だったら?
弾き比べてあそんでみよう。
 
 
”結”はやはり下がる音階の動きで返事をして締めくくる。
《ファーーミレ》《ラソファミ》と終わったメロディーをなぞるように内声で《ラソファソ》と
しずかにゆったりとエコー(こだま)がかかる。これなんで同じ《ラソファミ》にしなかった
のかな?やっぱり《ソ》の#というハッピーな響きのなかで終わりたくなったんじゃないかな?
そのほうが”浮遊感”をもって終わる感じがする(ミで終わると話が完全に完結する感じ)。
これも両方弾き比べてみよう。
 
 
以上で全体を大雑把に網羅したが、最後にもっと細かくこだわりたいそこのアナタに二点だけ
追加で遺言を残しておく。
前回言及した場面A ”起”のメロディーについて。
《ソーファミ》《ソーファミ》と二回繰り返し
二小節目アタマの《ソ》に飛び込むのだが、トニックであるEmの第三音《ソ》の高さを
保った状態のからだを維持したまま二小節目に飛び込むのを試してみて戴きたい。
つまり《ソ》の持つテンション感をその高さにとどめたまま、ミにはからだが下りないように
イメージして二小節目《ソ》に飛び込み、つづく《ファ》にリリースする。
でないと《えんやこら》《えんやこら》《え~~んやこ~ら~》みたいなノリになるでしょ。
《ソ》に内在するエネルギーをキープし続けることで、結果マルセル・モイーズのような太い線
で旋律を描くことが可能になる。私とギタリストの池田慎司さんで会話すると、こういった
内容がよく話題になる。機会があったら彼の意見も是非聴いてみるといい。たぶん五時間くらい
話してくれる(笑)。
 
 
あ、それからもうひとつ(刑事コロンボのマネ)、アーティキュレーションに関する話。
たとえば場面Bの三小節目《ファーーミレ》《ラソファソ》というメロディーは、単語の
区切り目が《レ》と《ラ》の間にある。仮にこの曲がバロックや古典の時代に書かれたもので
あれば、この二音間は切ることになるが、この単語の区切りをリエゾンのように滑らかに
つなげるのがいわゆるロマン派スタイルというやつなのである。セゴヴィアなんか文節の
区切り目を敢えて”スラー”や”ポルタメント”で接着するでしょ?あれがロマン派の手法なの
ですよ。
ヘンツェの作風を他の作品も併せて見ていると、ロマンティックなスタイルが大半なので
『緑の木陰にて』も”ロマン派作品”としてアプローチして問題ないと考える。
この曲の表現の基本としては、やはり ”espressivo” を念頭に置くことね。
under the green wood tree』松下流アナリーゼ
 
(おわり)
 

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“『緑の木陰にて』(その2)” への8件のフィードバック

  1. S.hongou より:

    最後にありがたいクリスマスプレゼントが。
    目の前の音符やいまやっていることだけに感覚や視線が囚われていると、今回「授業」いただきました内容は考えていもいなかったり。。(私だけか)
    ありがたい楽譜は、早速プリントしに、コンビニへ走ります!
    小品を豊かに弾ける人を目指します。

    • ryuji より:

      S.hongouさま
      あたたかいコメント頂戴しありがとうございます。
      断言していない分、読者の皆様からすると頼りなく映る面もあるかと思います。
      今回の曲でも私自身いまだに迷っているところもあり、今後見え方が変わるだろうという箇所もあります。
      そういった現時点での私の迷いも含めて皆様に晒しても、皆様のほうで
      「私はこうじゃないかと思う」「私ならこの部分はこう弾く」
      というのがハッキリするひとつのきっかけになればいいと思っています。
      ちなみに昨日、この曲について池田先生のご意見を直接うかがう時間があり、その中に大変”目からウロコ”なお言葉も頂戴することができました。
      やはり勉強は一生続きますね。

      • S.Hongou より:

        早速、弾いてみました。
        まずは、最初に、ppを気にしすぎ、ほぼ鳴らせない。「ソーファミ」のファが見事に満塁ホームラン状態。
        ピアニッシモだから小さな音、ではなくて、ピアニッシモを意識して弾く、ということの方が難しい。
        色々と学び返しや再確認をしています。

        • ryuji より:

          S.Hongouさま
          あ、さっそくお弾き頂いて嬉しいです。
          ちなみに”かっとばす”話題は、2小節目3拍目ファの話です。わかりにくくてすみません。
          まあ、かっとばしたところで誰に迷惑かける訳でもないので一向にかまわないのですが、、。
          お取組みの手順としましては、音の流れの勢いを知るため区切りを意識することで、次にその区切り目をどういう感触で弾くのかをいろいろ遊び、強弱記号の実践については最後でよいかと思います。

  2. 麻尾佳史 より:

    松下先生、勉強になる内容をありがとうございます。
    昨日恐らく20年ぶりくらいに自分でも楽譜を見直し演奏してみて、気づくことの多さに唖然としております。技術的制約の緩さは奏者側に託される内容の多さなんだなと再認識しました。この曲でやりたい表現を全て発揮するのは、相当な難題ですね、。
    「その日の気分で変えてみるかも」、と言うのはそのとおりかと思う一方で、先生の表現を拝見していると「その日の気分でも変えるべきではない」部分もある、と言うようにも読むことができました。
    そう言った内容を整理して読譜、暗譜するためのヒント等ありましたら、またどこかの機会でお教えいただければ幸いです。私は今、最終的には「全ての表現において(アドリブ的な意味において)自由になる」ことを夢見て練習しております。さっきとやってたこと違うやん?をいつでも出来るのがいいかな、なんて。でもそこにも何かしらの枠と言うものを感じていた方がよいのでしょうか。
    麻尾
    私もジャズの門を叩くときが迫っているのでしょうか。。

    • ryuji より:

      麻尾佳史さま
      コメント頂戴しありがとうございます。
      麻尾さんのように意識が高く演奏技術もお持ちの方が、この度取り組んでくださったことが非常にうれしいです。
      麻尾さんのコメントを拝見してると、私自身の考え方に気付かされる部分が毎回少なからずあります。
      「その日の気分でも変えるべきではない」部分は、別な言い方をさせて頂ければ「その日の”気分”などでは変えることの出来ない」いわゆる”事実”というヤツです。今回の曲の中では「メロディーが上がっている」「下がっている」「メロディーは同じだが低音が変化している」「休符がそこにある」「八分でなく付点を使った」「ドミナント」などです。
      それらの事実とどう向き合うかは、その日の自分とどう向き合うかに通じることで、その結果としてもちろん「昨日と同じ」もあり得ると思います(はじめから”昨日と同じに弾くぞ”ではなく、、、)。
      クラシックは台本(セリフ)が存在するお芝居をやる感じですね。例えるならモーツァルト作品と向き合うことは、いわばシェークスピア作品と向き合うようなことかもしれません。「このセリフ一言になにがこめられているか」みたいな、、、。
      一方でジャズは「本日いまからこのお題をテーマに自由に語って下さい」「このお題で自由に対談してくださーい」と振られる様なもの。クラシックにおける”自由”とは質が違う気がしますが、そこを体験(冷や汗?)したのちクラシックやフォルクローレ、ロックと向き合うと、『自分が現在”なに”と向き合っているか』が、より鮮明に感じられます。
      まあ、はじめは「このひとたちはなにが楽しゅうてこんなに長い時間弾いてられるんだ?」という興味でしたが、、、(笑)

  3. 麻尾佳史 より:

    松下先生
    いつも的確でわかりやすいご説明をありがとうございます。確かに、台本と自由対談というのはイメージがしやすいです。また、台本をきちんと読み込んでいれば、本番で思いがけずセリフを「間違えて」しまってもシェークスピアの意図に立ち返ることもできるのかもしれない、と言う多少身勝手な解釈もさせていただきたいなと思いました。
    こう言った言葉遊びのような問答こそが、私にとっては、自分の演奏に対して根拠のない自信を与えるためにかけがえのないものです。例え演奏そのものは同じであったとしてもこのような薄い紙を1枚ずつ積み重ねていきたいと願っています。いつもお付き合いいただき感謝致します。
    ところで、松下先生にも「この人らずっと弾いてるなー」と思われる時がある(あった)と言うのはどこか新鮮でした(笑)
    麻尾

    • ryuji より:

      麻尾佳史さま
      そうそう、あくまで言葉遊びです(笑)。次なる実践へ意欲を繋ぐためのですね。
      作曲された音符を演奏するにしても《一言一句間違えることなく発音すること》が本来の目的ではないはずです。
      そこにあるセリフが、今生まれたかのようにその場に立ち昇ったならば、アドリブと同じリアリティを獲得できるはずです。
      自然な流れでたまたまその言葉を発音したかのような演奏を将来的にしたいです。
      僕自身の傾向として「説明するような演奏」になってしまいがちなところがあります。
      その場で聴いてくださってる人たちの感受性をもっともっと信頼すべきだと最近は感じます。
      ジャズは他の音楽以上に流し聞きが出来ない気がします。雰囲気で聞こうとするとすぐに退屈になりますね、アドリブが(笑)。
      集中してサウンドにアンテナを張っていないと(ザルに水を入れるように)音が自分からスルスルと抜けていってしまう感じ。
      聴くだけでお腹が減る音楽です。

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