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「C,J,Fx2G~しあわせの架け橋」(その3)

 
このたびのコンサート「C,J,Fx2G~しあわせの架け橋」は、私が尊敬する偉大なゲスト御三方
の音楽に対し、《クラシック・ギターのアプローチや語法》を如何に有機的に結びつけることが
出来るか、というチャレンジが狙いのひとつとしてある。
 
 
具体的に言うと、ポピュラーミュージシャンの多くは他者とアンサンブルする時、コード進行と
メロディーのみが記載された「Cメロ譜」というものを使う。
つまりコードというユルイしばりの中、何の音を弾くかは奏者の自由な裁量に任せられるので
ある。
それに対しクラシックミュージシャンはあらかじめ作曲され、あるいはアレンジされた
「具体的な音」を弾くよう訓練された人種である。
クラシックミュージシャンにとってひとつの落とし穴となるのは、あらかじめ書かれた音符に
守られて安心しきってしまう傾向がある、ということ。
「情感豊かに生々しさをもって弾く訓練を意識的にしていない限り、音のリアリティの面で
ポピュラーミュージシャンには太刀打ち出来ない」ことを奏者が自覚しているかどうか
がつまるところクラシックミュージシャンの大きな問題なのである。
 
 
誰もが分かりやすい例を挙げよう。
結婚式でスピーチを頼まれたとする。
事前に台本をしっかりと書けばそれなりに内容のある話が確保、保障される。
ただそれをどう読みあげるか(その場にいる人たちに語りかけるか、台本を一言一句間違えない
ように読む事に腐心し結果台本に振り回されるか)によってその話は興味あるものにもつまら
ないものにもなりえる。
ただ台本のメリットとしては、アドリブのスピーチでは届きにくい「深い内容、あるいは高み」
にまで踏み込める可能性がある。
 
要は《内容》と《つたえかた》のバランスの問題である。
しゃべってる《内容》はいいのに、どこにも気持ちが向かっていないうつろなスピーチ。
《つたえかた》が良く、聞く人の気持ちを掴んでるにもかかわらず内容が希薄なスピーチ。
どちらもやだやだ、、、。
 
 
クラシックギターの世界において池田慎司さんほど「リアリティのある演奏」が出来るひとを
私は他に知らない。
彼は私と気質が正反対のギタリストだが、それでいて「似てる」と思える面も多々ある、
ある意味私にとって不思議な存在である。
池田氏と私の《ものごとの捉え方や行動》などについて、割と多くの知り合いが逆のイメージ
を持っている。すなわち「松下は考えに考えてから行動する。池田氏は反射的に行動し、
それから考える」と思われがちなのだ。だが実際は池田氏の方が私よりはるかに思慮深いのだ。
彼は考えに考え、しっかりとした理解、答え、納得を手にしてから行動を開始する。彼には理系
特有の明晰さが備わっている(うらやましい、、、)。
私の方がどちらかというと動物的勘にたよって動いている。物事を深く考える前に反射的に
行動する。だからといって《反射神経》が鋭いわけではないから常に満身創痍なのだ(でも
泣かないもん、、、)。
私ひとりではクラシックギターの或る側面しか表出できないのだが、彼と2G(Two
Guitars )となることによって、クラシックギターの多彩な魅力をより一層引き出すことが
可能となるのである。今回のコンサートではどうしても彼の力が必要なのだ。
 
 
このコンサートにおいて私は、異なるジャンルを《ブレンド》したいわけではない。
巷でよく言う《コラボレーション》でもない。《冒険》ともちがう。何か新しいことを試みたい
わけでもない。
異なる言語を話すそれぞれ独立したミュージシャン同士が、ステージ上で音楽に身を捧げること
によって(互いを殺すことなく)共存、共生できる姿を見たいのである。
ただ、いざ当日演奏が始まれば私の中の《反グローバリゼーション的意識》は音楽によって洗い
流され、しあわせな音の渦にひたすら飲み込まれてゆくこととなるに違いない。
でもそれでいいのだ。
 
あとは当日、会場にて、、、。
 
 
 

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