唐人町ギター教室では、楽譜が読めない初心者の方からプロを目指している上級者まで、現役プロミュージシャンが丁寧に指導致します

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時代は変わる、そして演奏も変わる。(その2)

 
このたび私が話しているのは1990年代初めから2000年代の初め頃にかけてのギター界の
状況についてである。
私よりはるか年配の方にとっては「そんなことあったっけ?」という方もいらっしゃるだろうし
私より若い世代の人たちにとっては「ふ~ん、、、。」というだけの話であろう。
ただ書き残しておきたい衝動に駆られる話ではある。
 
 
日本のギター界の流れを大雑把に俯瞰して見ると、戦後間もない頃のプロの演奏水準は
「コンサートでは“ミス”や“ど忘れ”が当たり前という状況だった」と当時を知る多くの方が
証言されている。(しかしそういった方々の御尽力の上に、こんにちの我々が存在している。
このことだけは絶対に忘れないようにしたい。)
その後渡辺範彦氏や荘村清志氏など素晴らしいギタリストの登場によって、安定したソロ演奏の
世界が供給されるようになる。このころ日本全体がギター・ブームで沸き返っていたらしい。
さらにその次に登場した人達は日本を飛び出し、世界最高水準のギターコンクールにおいて
優勝したり、高い評価を受けるにいたるのである。(先の渡辺氏もそうだが)山下和仁氏、
堀内剛志氏、福田進一氏、稲垣稔氏、岩永義信氏、といった方々がそうである。
 
それとクロスするように世のプロ・ギタリストは、他楽器とのアンサンブルという一般音楽界へ
足を踏み入れ始める(もちろんそれ以前にも踏み入れていた人たちはいらっしゃったが、一般的
にはギターは“ソロ楽器”という印象が強かった)のだが、ここにきて新たな壁にぶつかる事に
なる。世に存在する楽器の大半は独奏(ソロ)ではなくアンサンブルという形態が演奏活動の
主軸となっているのだが、当時のギタリスト達の多くがソロ演奏の修行に明け暮れ、アンサン
ブル能力が低かった。そのためクラシック・ギタリストは他楽器から敬遠されがちな存在と
なってしまう。
これはもちろんギタリストの側だけの問題ではない。当時音大にギター科がなかった事。
オーケストラで常時使われる楽器でない事。他楽器に比べ音量がやや小さい事。和声楽器である
ため「ギタリストはピアノ譜をそのまま弾けるはず」と他楽器奏者から誤解されている事。
他楽器の奏者のほとんどが“クラシックギターの生音”に触れるのが初めてである為、ギターの音
を聞き取りながらアンサンブルするのに慣れていない事。楽器の機能上、初見演奏が難しく恥を
かきやすい事(笑)など言い訳を挙げればきりがない。
どちらにしろ当時のギタリスト達は一般音楽界から「ギタリストってダメね」の烙印を押される
羽目になる。
 
 
そこでギタリスト達は格闘を始めるのだが、コンプレックスの持ち方はそれぞれであった。
ピアノ譜をギター用に編曲する際、「全ての音を詰め込まないとバカにされる」という危機感
からギチギチに音の詰まった編曲(というより転写)をし、実演であっぷあっぷ状態で演奏した
挙句、相方の旋律楽器奏者から「やっぱりギターよりピアノのほうが、、、。」と思われる人。
アンサンブルにおいて他楽器から「音量が小さい」と思われたくない為、常に楽器が悲鳴を
あげている様なタッチで演奏する人。
みんなそれぞれの解釈で一般音楽界から受け入れられるよう必死の努力をした。
 
どんな楽器でもその楽器特有の言語をもっているが、一部のギタリスト達はアンサンブルの世界
で受け入れられない原因が「ギタリストのアンサンブル能力」ではなく、「ギター的言語」
(すなわち方言といってもいい)にあると考えた。
そしてギター特有の魅力的方言である“グリッサンド”や“ポルタメント”そして“アポヤンド”
挙句の果てに“テンポ・ルバート”までをも否定し始めるのである。
そこではピアノのような均一な音色が求められ、ギターらしさを表に出すことは「恥ずかしい
事」とされた。これは現在から過去をデフォルメして見せているように感じる人もいるかも
しれないが、間違いなく当時の風潮である。
ちなみに当時はM.バルエコ、D.ラッセル、G.セルシェルらがギター界の旗手として世界を
牽引していた。
 
(つづく)
 
 
 

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“時代は変わる、そして演奏も変わる。(その2)” への2件のフィードバック

  1. Takao Yoshimoto より:

    ギターは素人ですからよく分かりませんが、合唱の世界でも聴いて最も感動するのは決して音程が正しい、発声が正しい、楽譜の指示通り歌っているなどではないと思っています。  勿論、基本的なことは大切ですが、必ずしも上記のような団体が歌う曲が多くの人の感動、感激、喜びを呼び起こすとは言えないと思います。 曲を理解して歌う人の気持ち、心が一つになってメッセージを伝える事が出来た時(勿論、一定レベルの技術的な裏付けがあって)聴く人に感動を与えるものだと思います。 あまり技術的なことに拘りすぎるのはあまり良くないことと思っています。 思い出せば学生時代に今でもそうですが大学男声合唱団のTOPグループを形成する四連と言われる、慶応、早稲田、関学、同志社ですが、当時の関西での関学と同志社は常時神経質に敵対していたものです。 その当時の同志社の常任指揮者、故 福永陽一郎先生の言葉に関学の素晴らしく透明感のある、見事に統一された、優等生的な合唱と、どこか荒削りだが外に発散する大きなエネルギーを秘めた同志社を対比して話されていた事を思い出します。 一つ間違えば崖から転がる落ちるような危険性を孕んでいるが、はまった時の同志社グリーの音楽はまさに聴く人に大きな感動を与える。 今でも歴史的名演と言われる演奏を聴くとよく分かります。 いつもこの言葉を忘れずに歌っています(笑)  しかし技術的なことを否定しているものではありません。
    先日の練習で先生から同様の意味の話を聞き喜んでおります!

    • ryuji より:

      Yoshimotoさま
      感動、感激、喜び、、、そういったものを呼び起こすのが音楽をやっている目的だと思うのですが、いざやる段になると、「技術的な問題」に振り回されたり囚われたりしがちですね。演奏中技術的にほころびが出ても、本来の目的から目をそらさずに向かい続けるには強い意志が必要です。もちろん技術的問題は決して無視できませんが、演奏中にはそのことは忘れたいですね(笑)。
      貴重なコメントありがとうございます!

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