クラシックギターについての専門的な今回の話題も、これで終わりである。
私は元来このての話はあまりしたくない。
なぜならギタリストが10人いたら価値感や美的感覚も10人それぞれであるし、たとえその場
の議論に一時的に勝利しえたとしても、他者の生理的な好みを変えることなど絶対に不可能
だからである。しかも仮に変えられたところで、それがいったい何なのだろう、、、。
だからこのたび私がこの場をお借りして書いていることも、決して正義だとは思っていないし、
あくまで私自身の好みの話をしている。ただそこに今の若い人たちが体験しなかった事実を、
わたしに出来る限りの客観性をもって書き終える事が出来たら良いと思っている。
A.セゴヴィア、J.ウィリアムス、J.ブリームらの次世代を担う巨匠としてM.バルエコ、D.
ラッセル、G.セルシェルらが登場し盛んに来日してきた頃あたりから、“グリッサンド”や
“ポルタメント”“アポヤンド”そして“テンポ・ルバート”といったものに対し、「臭い表現」
という一言で切り捨てる傾向がギター界の中で強くなった。
確かに“グリッサンド”や“ポルタメント”そして“アポヤンド”といったギターの奏法は、ルネッ
サンスやバロック、古典の作品を演奏する場合にはあまりにスタイルとして“ロマンティック”
になってしまう。しかしそれらのスタイルが全盛だった頃のF.タルレガ、M.リョベート、
A.セゴヴィア、R.サインス・デ・ラ・マーサ、E.プジョールゆかりの作品を演奏するときまで
それらを排除するというのはどうだろう。ましてや“ルバート”に関しては西洋音楽の歴史の中に
常に存在しているのだ(ルネッサンスで使用するルバートとロマン派で使用するルバートでは
だいぶ感覚が違うとは思うが、、、)。
当時(1990頃~2000頃)のギターの公開レッスンの場で、F.タルレガの曲をレッスン
する際、先生が「その装飾やポルタメントは“時代遅れ”だからやらなくて良い。」と
アドヴァイスしている現場をよく見かけた。
もともと時代遅れの曲をやっている(笑)のに、何故この先生はこんな事を言うのだろう、
と当時不思議に思っていた、、、。
先日の北九州における大阪のギタリスト岩崎慎一氏の「ロマン派音楽における装飾レクチャー」
は、ギター界がどこかに置き忘れてゆこうとしている“大切な宝物”を誰に頼まれるでもなく、
先人達から確実に受け継ぎ、その価値をひたすら信じて守っている一人のギタリストの強さと
美しさに心を奪われた、そんな時間だった。
彼がその場で表出し得た「ロマン派的表現」の持つ繊細さは、その講習会に参加していた人たち
の心に“ギターを弾く喜び”と共にしっかりと刻まれたのだった。
(おわり)
時代は変わる、そして演奏も変わる。(その3)
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クラシックの方々は、先人の残された業績を受け継いでいってらっしゃると思っていました。
今回の回を拝見し、プロの方々からも、そうして自分の感じた、一般の方々からの、この楽器とそれが奏でる音楽へのかい離を強く感じました。
なぜ、何百年も前の曲が褪せることなく残っているのか、当たり前と思わず、見直していく時期なのかもしれないと思っております。
Hongouさま
いつもコメント戴きありがとうございます。
「クラシック音楽」といっても時代それぞれにそくした表現はやはりあるわけで、それを認めないと音楽が今度は時代そのものと乖離し、単に博物館のケースの中の陳列物と同じになってしまう危険もあります。過去の伝統や業績を持ち上げすぎてそれが権威になってしまうことも多いですし、、、。
ただ、過去と向き合う時に受け継ぐにしろ切り捨てるにしろ充分な吟味が必要でしょうね。自分の内的欲求に基づくのがミュージシャンにとっての理想だと思いますが、世の中そうでなさそうな場合の方が多過ぎます(笑)。