子どもの頃テレビ放映されていた”まんが日本昔ばなし”は、日本各地に伝わるほのぼのした
話もたくさんあった。市原悦子さんと常田富士男さんのおふたりが、何役もの声を使い分ける
語りは、本当に素晴らしいものだった。
しかし中には徹底して怖い話もあった。
今も昔も臆病な私が、いまだに忘れない話に『とうせん坊』というのがある。
データを調べてみると1978年12月9日放映となっているから、私がギターを始めて一年も
経たない小2の頃だ。
小学校の図書館に置いてあった絵本『雪女』、平和授業の一環で鑑賞した映画『はだしのゲン』
『ザ・デイ・アフター』、楳図かずおによる傑作漫画『漂流教室』『おろち(第一話)』など、
それらは未だに私の心に、抜けない棘として刺さったままだ。それらから共通して感じとった
のは、非常に単純に言うと「人間ってこわい」ということである。
なかでも『とうせん坊』は、何とも後味の悪い、胃がもたれるくらい救いがない話だった。
川崎市登戸での殺傷事件。京都アニメーション放火事件。亡くなられた方々に心からお悔やみ
申し上げたい。
目を覆うばかりのこれらのニュースに接した瞬間、反射的に「ああ、、、日本社会は、また
”とうせん坊”を出してしまった」と感じた。
10年前より一気に加速した今の日本社会の特徴として挙げられるものに、《ジャッジする
社会》がある。先の吉本の問題もそうだが、マスコミが世間に判定をそそのかし、一般人も
著名人もそれにのるカタチでジャッジのコメントを発信する。
みんな(もちろん私も含む)なんだかんだ言って、ジャッジを楽しんでいる。
で、飽きたら次の話題でまたジャッジ、、、。
ここで気になるのが、「自分の主張(およびジャッジ)は、自分の主観に基づいたものだ」
という自覚が本人にあるかどうか。
つまり自分の発信を、自分で背負う覚悟があるかどうかだと私は考える。
他者をジャッジするものは他者からジャッジされる。その時自分の名前をさらすのは最低限の
マナーだろう。
本音を言えば、一億総批評家でジャッジをする世界そのものが病的だ。
ネット社会はモラルをおいてけぼりにして、暴走を続ける。そして次なるとうせん坊が、
途切れることなく世に現れる。
これらの事件のあと加害者に対し「死ぬなら一人で死ね」と発言するひとがいる。
たが《ジャッジするコメント》が、目に見えない加害者予備軍のひとたちを追いつめ、社会に
対する憎悪から「どうせ死ぬなら社会が嫌がることをやって死んでやる」という復讐的発想に
駆り立てる。発言がその都度注目されるような著名人が、ジャッジの言葉を口にする時は
拡散力はなおさらである。
「死ぬなら一人で死ね」
発言する本人の感情のためにしか益がないこの言葉に対して警鐘を鳴らしてる人は、加害者の
人権を擁護するために鳴らしているわけではない。
”思う”のは個人の自由で済まされる。だが”発信された”ものは、(加害者予備軍という)
見えない他者を傷つけ、追いつめる可能性があるということを、発信前に一瞬でも背負った方が
いい。
”あなたのジャッジ”も次なる犯罪を誘発する力を持っている。
この事実を皆が自覚することで、世の人間関係がほんの少しだけやわらかくなるのでは
なかろうか。
ちなみに加害者予備軍に対し「絶対にひとを巻き込んでもいけないし、あなたも死ぬな」という
言葉が先に出るほうが、私には違和感がない(あくまで私の場合)。
それを”キレイごと”と切り捨てようとする思考や発想そのものに対し、私はむしろ現代社会の
歪みを強く感じずにはいられないのである。
大阪の某著名人が言及するように、教育やいろんなシステムをつくることで改善される類いの
ものなのかどうか、、、そこは私にはどうもピンとこない。
ただスポーツ面や映像、文学、絵画、音楽等の文化面、、、これらにたずさわる専門家が
そんな世の中に対し貢献できる余地は、直接的ではないにしろ実はかなりあるのではなかろうか
という気がしている。
2019.7.28.
心の棘を抜かずに
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