先日、11日(日)に福岡市内の甘棠館show劇場で、姫路のミュージシャン山田賢氏との
コンサート”薄明りの対話”を無事終える事が出来た。ご来場くださった皆様に心から御礼
申し上げたい。
着飾ることもなく普段着のままステージに立った平成生まれの彼の主張および世界観は、
ハッキリとはしているが、やわらかく優しいものだった。同じステージの上でこちらはと言えば
昭和的なキラキラな衣装を身に纏い、ゴリゴリと主張をする、15年後の音楽業界から見たら
おそらく”イタイ世界”。
事前に確認することなく当日フタを開けたらそうだった、という事だが、面白いのでそのままに
しておいた。統一するのでなく異質なものが共存している方がこちらとしても理想である。
「音楽をする」「音楽に触れる」という行為が、ひとびとの日常において(特別感のない)
自然な行為となる日が、牛歩ではあるが近づいていることを”山賢ワールド”は示していた。
「その時それまで特権的にふるまってきた”職業ミュージシャン”なるものの存在は四散し、
世の中すべてのひとが芸術家となり得る日がおとずれる」とするのは、ただの子供じみた夢想で
あろうか。
私が生きている間は到底無理な気がするが、それでも流れはそちらに向かっている気がする。
彼が手にぶら下げた火箸の美しい余韻。決して器用に操っているわけではないが、しっかりと
場に存在している彼の声、グロッケン、そしてギター、、、。
”演奏”よりは”おと”と向き合う時間と言えるだろうか。
コンサートの始まりは、企画が決まった瞬間から、、、と最近は感じる。
その日から当日まで、《主催者》《共演者》《お客さんの期待》とどのような人間関係を結んで
ゆけるか?近頃はそこにしかコンサートの価値を見出せないでいる。
そういえば武満徹さんと谷川俊太郎さんの対談の中での言葉にこんなものがあった。
(仕事を引き受けるときの自分の中の選別の基準について)『《肯定できる人間関係》と
いうものを、その仕事をやったときにつくり出せるかもしれない、というときだけ』
十年以上前にこの言葉に触れて以来、これは仕事をするときの私の中の基準にもなっている。
お客さんというものも、実際には当日の演奏内容だけを楽しんでいるわけではなく、《当日の
演奏をききながらも、その演奏の裏で積み重ねられてきたもの》の存在を感じているに違いない
のである。そのことに関しては私の中にかなりハッキリと確信がある。
そこを軽視し、「当日の演奏がうまくいけばお仕事としてOK」という認識程度の、職業的
ミュージシャンと時間を過ごす気はさらさらない。
コンサートからつぎのコンサートへ、、、共演者、主催者、お客さんから感触をいただきながら
(うまくいったこと、いかなかったことを踏まえながら)いつ死んでも悔いがない前傾姿勢を
保ち続ける、、、近頃そんな想いの、垢ぬけない昭和ギタリストである。
2018.3.15.
コンサートからコンサートへ、、、
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