《みずから卒業するひとたち》
AKB が脱退のことを”卒業”と言い出してからだろうか?
春でもないのに年がら年中、みずから卒業する人が増えている。
脱退、脱会、退職、離脱、解雇、、、すべて卒業と表現されうる時代となってしまった。
ギター教室からの”自主卒業”は経営上シャレにならんが(笑)、生徒さんが別な曲にうつりたい
時、
「この曲卒業したいでーす」
と表現される時がある。
気のせいか女性の方がよく使うようである。
”やめたいです” ではストレート過ぎるし、トゲがあるという気遣いだろうか、、、。
確かにやわらかい印象にはなる。
だがよく考えて欲しい。
本来”卒業”というものは、自分で申告、宣言して出来るたぐいのものではないということを。
自分以外の他者が判断した結果、卒業というものが成り立つ、ということを。
でなければ、私の場合「一年で大学を”卒業”した」とプロフィールに記載しても良いことになる
のだぞ(やってみようかな、、、その場合、学歴詐称になるのかな)。
《ゲームしかしないひとたち》
次はまじめなお話。
社会生活のかたわらゲームに興じるひとには危惧しない。
彼ら彼女らが自分で稼いだお金をゲームに何百万つぎ込もうと、その人達の自由だと思う。
ここでは他者との関わりを一切遮断して、ゲームだけをやってるひとのことを考えたい。
もし彼の人達から「人生に”価値や意味”を見出す行為が、なぜ必要なのか?」と問われたら、
あなたはどのように答えるだろう?
わたしには答えられない。
自分の人生は自分だけのものだと考えているのだったら、おそらくその人生に価値はないし、
意味もない。
しかし”価値や意味の有無”を基準にものごとを考えようとしている自分に気が付く時、
ひょっとして私自身が資本主義的感覚もしくは都会生活感覚に洗脳されているだけなのか?
という不安が頭をよぎってしまうこともある。
『ネットゲーム廃人』と呼ばれる人達の存在は、私にそういったことを考えさせてくれる。
私にとって『人格を向上させ続けること』が、”人生の限られた時間における目的”だと漠然と
感じながら、これまでを過ごしてきた。
おかげで現在の私は充実しているが、自分の歩んでいる道が正しいとも思わないし、ひとさまに
すすめるつもりもない。
ちなみに私の場合なぜそうだったかというと、人生のポイントポイントでそういった人たちが
目の前に現れてくれたからだ。
つまりは”他者に対するあこがれ”が、私をそのような意識に駆り立てた。
だが彼ら(ゲームしかしないひとたち)の存在は、私のそういった思いに対し、静かにつぶやい
ているかのようである。
「どうかほっといてくれ」と、、、。
ひとの充実の尺度はそれぞれ違うと思うが、それを決定するのはやはり「周りにどういったひと
たちが居るのか」が大きい。
そして現在の私の人生の目的は、他者に対して”その役”を果たせる人間になれるか、ということ
である。
別にそれが立派なことだとは思わない。
あくまで自分の充実のためである。
2018.1.15.
このごろ世間に流行るもの
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