唐人町ギター教室では、楽譜が読めない初心者の方からプロを目指している上級者まで、現役プロミュージシャンが丁寧に指導致します

Blog

レッスンというもの

 
習い事というのは本来シンプルなことである。
ただし「先生のやってることを生徒が100%真似出来たら、、、」という条件がつく。
そして先生のような音を出したければ、指先の動きを目で追うより、そのときの先生の
たたずまいを感じて、それを真似するほうが報われることが多い。
 
 
人と全く同じ動作をするということは人間ほぼ不可能である。
なぜなら人によって指や腕の長さ、爪の形、座高など身体的条件が違う。
そしてその身体に対し命令を出す脳の速度、整頓のされ方(感受性)もそれぞれ違う。
レッスンというのは先生と生徒のそういった”人間的ズレ”をいかにお互いが乗り越え、共通した
”音の感触”にたどりつくか、を探ってゆく旅のような気がしてならない。
 
 
だがその”感触表出”の為に先生がとっている動作を取り敢えずは真似てみる。
そこで先生との身体的ズレを大きく感じる場合は真似をやめ、自分の身体でその感触を再現する
方法を探す旅に出る(先生と一緒に、、、)。
けっして「先生の動きが模範だ」などと思ってはいけない。
それはあくまで人間のサンプルのひとつに過ぎない。
 
 
レッスンをする側としては知識も大事だが、それ以上にそのひとが人生で実践してきた
”経験”を分けることのほうがより意義深いことだと思う。
そして先生が現役演奏家の場合は、実際のステージ上で「共に経験」することが出来る強みが
ある。
 
 
 
最後に”消費社会”におけるレッスンというものについて、ひとこと(ふたこと、みこと
、、、)。
わたしにとって師のひとりである、あるヴァイオリニストがかつてこんな事をおっしゃって
いた。言い回しは違うが以下の内容である。
 
「形あるものや商品などと違って、”おそわったこと”というのは一度いただいたらモノのよう
には返品、返却できない。”ひとからものをおそわる”というのはつまりはそういうことだ。
返却できないいわば<一生もらいっぱなしのもの>をもらうわけだから、習う立場の人間はその
事実を踏まえた上で、教えてくれる人に対し敬意をはらいながら受け取るべきだ。」
 
知識はともかく”その人独自の経験”の場合はなおさらであろう。
 
 
純粋に”ギターうまくなりたい””音楽を楽しみたい”というかたは大歓迎だし全力でサポート
するが、あくまでサポートであり、演奏技術および音楽における感受性というのは、結局は
生徒さんが自力で育むしかないのである。
ところが「こっちはお金払ってるんだから私を上手にしてよね」といった”消費者としての
権利”のほうをより上位に振りかざす方に関しては(全面的に間違っているとは言わないが)
私としてはよその教室をおすすめしたい。
 
 
「うちはちゃんと給食費払ってんだから、給食時間にうちの子に”いただきます”なんて言わせ
ないで。」
などと学校に言う親が現実にいるこの時代、その意見をおかしいと思わない人が少しずつでは
あるが増えているのも事実である。
 
 
これは別に「先生としてあがめてほしい」といった単純な話ではない(べつにあがめてもらい
たいとも思わないし、、、笑)。
逆に私の方でも「教室にとって生徒さんはお客様であり神様、、、」とも思わない。
 
 
お互いにもちろん利害はあるが、それを見えないところに置いた状態で、人として持つべき敬意
を持ち合い、信頼が結べたらその時初めてギターや音楽を通じて高め合う関係になりうるのでは
なかろうか。
 
そして生徒さん達とその信頼を結ぶ為に、ギタリストとしてのわたしは日々全力でレッスン
している。
 
 
2015.4.11.
 

カテゴリー:

“レッスンというもの” への7件のフィードバック

  1. shun より:

    先生のブログを読むといつも、普段意識してなかった事を改めて考えさせられます。
    人に何かを教わる時、与えてもらえるのは”結果”ではなく”結果に至るための近道(の可能性が高いと思われたもの)”なのだということを忘れちゃいけないと思いました。
    教えてくれる人は、専らそれに関わって日々時間を過ごしているから、一定期間で蓄積する知識や経験が他の人より多い。教わるとは、かかるはずの時間や、試行錯誤の手間、取捨選択に悩む労力を省かせてもらうということ。”師に敬意を表す”とは、「人として100%優れている」と崇めることではなく、その時間・手間・労力に敬意を払う(感謝する)ということなんだと思いました。
    そして、示されている事をどう受け止めるかは教わる側の責任だし、たとえ想定していた時間内に描いていた結果に行き着けなくても、”意味がなかった”と捨て去りたくない。楽しんだ瞬間があったはずだし、当初想定してなかった副産物が得られてるかもしれないから。
    ところで先生、教わる側のジタバタって、教える側にとっては蓄積すべき新しいパターン(経験)ですよね? そういう意味ではgive and take? 私、”上手く出来ない事例”をい~っぱい提供していますよね?(その点は胸を張れます(#^_^#)) 

    • ryuji より:

      shunさま
      大変素敵なコメント戴きありがとうございます。
      わたしの駄文の言葉足らずな部分をすべておっしゃって頂いたと感謝しております。
      「生徒が先生を崇めて先生がふんぞり返る」のも
      「生徒が消費者としての権利を主張し過ぎ、先生がへりくだる」のも
      ひとの関係としてバランスが悪い気がします。
      ひととして向き合ったときの必要最小限(それ以上でも以下でもない)の敬意をお互いがはらう、ただそれだけの関係が結べたら良いと思っていますが、それは社会全般、どの分野の仕事上の人間関係においてもそうであって欲しいですね。
      自分がどこかのお店に入ったときに、お店の人に対し<店員さん>である前にこの人は<ひと>なんだ、と思って接したい(笑)。
      そしてもし自分がお店の人だったら、「このお客をどう利益に換えるか」などと考えるより前に、「このひとが困ってることがあったら助けてあげたい」という思いを優先して接したい。
      理想論でしょうか?

  2. サトウアキコ より:

    教わったことというのは、生きている限り、(あの世にいってもかも)誰からも盗まれることのない財産なのだそうです。学ぶことは「真似ぶ」ことですものね。
    緊張して、恥ずかしくて、恐縮して、なかなか先生のお手元を拝見できない人も居ることをお含みおきくださいませ、、、

    • ryuji より:

      コメントありがとうございます。
      このたびのブログ記事はお読み戴いた方にたいへん高飛車な印象を与えてしまう可能性が強いと思いますが、あえて弁解もしませんし誤解されることも覚悟のうえで書きました。
      ただ申し上げておきたいのは、これまで二十年間レッスンさせて頂いて、今現在「生徒さんたちとの関係」に関しては非常に恵まれている、と心から感じるし感謝もしております。

  3. 荒田和豊 より:

    楽しく読ませて頂いております。
    教える、、、何を伝えることが出来るのか、、いつも考えさせられます。
    春になるとなぜか平山温泉に行きたくなります。心のリセットして来ました。
    あの部屋で皆さんと共に学んだ事は宝物ですね。
    学ぶ、教わる、先生は模範であるけど模範にならない、、、同感です。

    • ryuji より:

      荒田先生
      ご無沙汰しております。コメントいただき有難うございます。
      2015年に書いたブログなので、どんな内容だったか久々に読み返してみましたが、根本的な考え方は現在の私と変わりありませんでした。
      荒田先生からは本当に多くのことを学ばせて頂き、感謝しております。
      戴いたアドヴァイスのなかで印象的だったのは「30代をどう送るか(なにを学ぶか)で、40代以降の松下さんが決まってくるよ」というものでしたが、40代半ばを過ぎた今、そのことを強く実感しております。
      今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

  4. 荒田和豊 より:

    時の経つのは早いですね。松下さんのご活躍拝見させて頂いております。
    お互い健康であれば積み上げていけるということです。
    健康に留意なされてますますのご活躍下さい。
    また、スタジオにお邪魔したいと思います。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です