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親愛なる先生(アルベルト・ポンセ編その3)

 
ポンセ先生はエコール・ノルマル音楽院で5年生と6年生(最上級生)のクラスを受け持たれて
いたが、私は5年生のクラスに入れていただくことになった。すべて福田進一先生のおかげで
ある。
ところが初めて学校に行った日、ポンセ先生のクラスを訪ねた私の顔を見て
「え~っと、、、おまえはなんだっけ?」
と言われたのにはおどろいた(おどろいたどころか心臓から冷や汗が出た、、、)。
身振り手振り、カタコトのフランス語、たよりない英語、哀願する視線すべてを総動員しながら
わたしは必死で<あの日とりつけた約束>を思い出させようとした。
しばらくしてポンセ先生は思い出し、
「ああ、そうだった。おまえは俺のクラスだった。」
と笑いながら私の肩を叩いてくれた。まったく学校初日からこんなに体力と精神力を消耗する
なんて、、、。
 
 
ちなみに5年生の年間課題曲はたったの五曲で、これらを一年間かけて練習すればよかった。
ちなみにその五曲とは、、、
 
*セヴィジャーナ(J.トゥリーナ)
*プレリュード~リュート組曲4番より(J.S.バッハ/A.ポンセ編)
*アレグロ・ノン・トロッポ~第二グランドソナタより(F.ソル)
*エチュード・カプリチオ(M.リョベート)
*主題と変奏(L.バークリー)
 
 
ポンセ先生は人気があり、生徒数も多かったので自分のレッスンの番が廻ってくるのは二週間に
一回の割合だったが、他の生徒のレッスンは見学自由だったし、やってる曲も皆同じなので
結果的に人のレッスンから学ぶ面が非常に大きかった。
 
 
ポンセ先生のレッスン部屋 Salle Emilio PUJOL <エミリオ・プジョールの部屋>は6~7人も
入れば一杯になるぐらい狭い部屋で、しかもヘヴィー・スモーカーのポンセ先生はかたときも
タバコを手放さず、夕方レッスンが終わるころには山盛りの灰皿と共に「先生と生徒の燻製」が
出来上がるのが常であった。
 
 
最上級生である6年生のレッスンが見放題なのは非常にありがたかった。六年生は当然ながら
全員がわたしよりレヴェルが遥かに上で、学生でありながら皆すでに自分の演奏スタイルを確立
しているように見えた。
ちなみに6年生の年間課題曲(五曲)を参考までに挙げると、
 
*ロッシニアーナ第一番(M.ジュリアーニ)
*近代のソナタ一曲(M.ポンセのソナタ3番での受講が多かった)
*無窮動(P.プティ)
*シャコンヌ(J.S.バッハ)
*コンチェルト一曲(ほとんどの生徒がアランフェス)
 
同じ五曲でもハードだべ、こりゃ、、、(それでも福田先生留学時代に比べると随分ラクに
なってるらしい)。
 
 
留学中というのは自分の為の時間が非常にあり、ひたすら練習した。というか「やることないし
ヒマだから練習でもするしかないな、、、。」というのが正直なところだった。なんと贅沢な
環境だろう。多い時は一日八時間練習したが、今振り返ってみるとその時間内で身に付いたり
向上したことというのはごく僅かな気がする。あの頃八時間かけて身に付けたことが今ならば
一時間でやれる。つまりほとんどは無駄であった(ただ、その結論を手に入れたということに
関して言えばおそらく無駄ではなかったのだろう)。
 
 
ポンセ先生はやわらかい音色を好まれて、生徒達にもそれを要求した。
ギターという楽器は「かたい音」よりも「やわらかい音」を出すほうがはるかに難しい。
しかもわたしが当時使っていたギターは日本ではかつて「鉄下駄」の異名をとったこともある
故松村雅旦氏製作の松材のガチガチ・ギターだったのだ。
他の生徒たちが杉材のやわらかいギターでやわらかい音色をラクラクと出している中、わたし
のみがその課題をクリアーするのに異常に手間取ったのは言うまでもない。
 
 
 
逆なケースもあった。
わたしは右手の親指がかなり極端に「逆反り」するのであるが、それは日本にいた頃自分の師匠
をはじめ、どの先生からも注意を受けた。
結局それを修正出来ないまま留学ということになったのだが、なんと不思議なことにポンセ先生
のみがわたしの<逆反り親指>から紡ぎだされるやわらかい音色を大変気に入り、評価して
くださったのだ(留学中ほめられたのはそれしかなかったかも、、、)。
 
レッスンの合い間に先生は良くこのようにおっしゃった。
「ルイジ(先生は私をこう呼ばれていた)、、、すべての指が親指だったらおまえはすごい
ギタリストだ。」
 
 
(つづく)
 

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