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二つの帰納的場面に対し「何か言いたい秋、、、。」

 
帰納が納得感を得るためには多くの事例が必要であろうが、異なる事例に出会うたび再構築して
ゆくのは大きなエネルギーと柔軟性を要する気がする。
 
 
先日のことである。
朝九時ごろ、私はギターを背負い、地下鉄に乗ってリハーサルヘと向かっていた。
家から知り合いのオカリナ奏者のマンションまで時間にして三十分ほどである。途中福岡市の
中心街である天神を通り過ぎねばならない。私は天神駅で地下鉄を降り、いつものように階段を
のぼろうとしたまさにその時、ある状況を目撃したのである。
 
 
わたしが階段を(別に主義主張ではなく単に運動の為)使っているその横を、エスカレータを
利用する方々が歩いてのぼっていく、、、エスカレータ上で止まっている人は一人もいない。
それは見事なまでに百パーセントの「歩行率」であった。
 
 
何故その状況がわたしにとって印象的だったのか?
これは福岡市以外の場所で暮らす方々には解説が必要な事である。
 
 
“福岡市営地下鉄”がここ数年、「新マナー」「新モラル」「新ルール」のひとつとして強力に
打ち出しているものの中に
「エスカレータでの歩行は危険ですから止めましょう!」
というのがある。地下鉄構内を歩いているとこのポスターをよく目にするし、エスカレータの
乗り口にも駅によっては「歩行禁止」のシンボルマークがかなりの大きさで乗客を威圧する。
ちなみにこの「新マナー・キャンペーン」は福岡以外の他県ではお目にかかった事がない
(よそで見た人がいたらおしえて下さい ) 。
 
 
福岡市営地下鉄が呼びかけるこの「新マナーキャンペーン」が始まってもう何年も経つのに
一向に定着しないのにはきっと理由があるのだろうが、ひとつには多くの人が“納得のいく説明
を受けていない感”が強い為ではなかろうか、、、。
実際過去にエスカレータ上での歩行を原因とした事故もあったのだろう。
だがその事故が起こった最大の原因は「エスカレータ上での歩行」にあるのではなく
「“事故を起こした人”のエスカレータ上での歩行の仕方」にあったといえるのではないか?
 
 
もっとたくさんの事例を集め、検討した形跡が“受け手側に感じられるかどうか”で福岡市営
地下鉄側の帰納的主張も受け入れられる可能性が出てくるのだが、ただひたすら連呼したり威圧
したりするだけではねえ、、、。
 
つまるところ音楽やコンサートも同じだと思うが、、、。
 
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つづいて、ある飲み会の場面である。
あるひとがわたしに「Facebook」で広い世界とつながることの利点を説きはじめた
(ちなみにわたしは Facebook に関して積極的ではない)。
そのひとは Facebook を通じてある方と知り合い、結果自分の価値観が揺さぶられるほどの影響
を受けたそうである。Facebook をやっていなければ、まず知り合う機会のない職種の人
だった、と言うのである。頭の固いわたしも、ある面ではそれは真実であろうと思う。
 
 
だが一方で思うのである。
それはその人が無意識のうちに、ある“望む人”と出会うべく日頃からアンテナを張りめぐらして
いた結果の出会いに違いない、と、、、。
わたしに言わせれば別に Facebook  でなくとも、日常の中に自分が望む人と出会える場面と
いうのは至るところにあるのである。
仮にボーリング場に行って(ギタリストは爪が割れるから行かないが)、隣のレーンで投げて
いた人とひょんなきっかけで話がはずみ、その後自分の価値観が揺さぶられるほどの影響を
受ける事だって有り得るのだが、そのひとはその結果を
「ボーリング場って素晴らしいところだ」
という言葉に集約するのだろうか?
 
 
したがって Facebook でそのひとが「良い出会い」を経験したことは祝福するが、イコール
「 Facebook ってすばらしいもんだよ」
という意見に対しては全面的には同意しかねる。
 
 
 
ただその飲み会の現場において“頭の回転が極めてゆっくりなわたし”は
「いえ、そんなにやたらと人とつながる気はありません」
程度の事しか言えず、言いたいことや自分の考えがまとまってきた時には話題はすでに遥か彼方
に流れ去っている事がほとんどいつものことで、長年それが自分の弱点だと認識しつつもいまだ
克服出来ずにいるのである。
 
 

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“二つの帰納的場面に対し「何か言いたい秋、、、。」” への2件のフィードバック

  1. 大久保 徹 より:

    相変わらず興味深い内容と観察眼ですね♪
    過剰に摂取しないリアリティーは大切ですが、集団で強制的に乱入してくる情報に、はたして彼等の中で正しい取捨選択が存在出来るものか?
    その意味で、エスカレータもFBも本質を忘れた部分で崩壊を呼び込んでいる感じを受けましたが、集団に帰属するが故、自己の主張を黙殺し流れていく事がマナーのような空気があるのも事実。これもまた【崩壊】を経験しないかぎり、気が付く事はないのではないでしょうかねェ、便利という口当たりの良いだけの魔法である事に。
     今回のお話を読んで、帰納的現場の大きな意味とは、古典継承ではなく、太古の悪意への反抗、つまり最終防壁の機能を指す、本来の自然な生活リズムに対する警告のような気がしております。
     選ばれし者の強みとは、絶対破綻者にならない直観力と業を背負える覇気を内に秘めた穏やかさだと思ってます。ご自身の「観」を今まで以上に大切にされてください。
    では続きはまた、後日に別の場所にて♪

    • ryuji より:

      大久保様
      コメントありがとうございます。
      ブログの文章は「私の言いたいことを一方通行」なので実際の会話よりリラックスして考えられる反面、独善的な部分が強い為みなさまからのコメントは(たとえ反対意見であっても)とてもありがたく受けとめております。
      ただ実際の会話のテンポで主張出来ない限り、「対談」という分野は私には永久に無理なのかしら、、、(苦笑)。

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