ある特定の「誰か」もしくは、ある特定の「集団」のための音楽および演奏は出来るだけ
やりたくない、とここ数年考えている。
それが“生者”であろうと“死者”であろうと、、、。
“エンターテインメント”は「今を生きている」ひとに向けられたもの。
“芸術音楽”は今を生きるひとだけでなく、「既に亡くなったひと」あるいは「これから生まれ
てくる人」に対しても意識が向けられているもの。
つまり私が考えるに、それはいわゆる“ジャンル”とは関係がない。
ロックやジャズの中にもそういう意味での“芸術音楽”は多数存在するし、クラシックの中にも
“エンターテインメント”としか呼び様のないものも多数存在する。
“生者”と“死者”そして“未来の命”
それらの「すき間」をぬうように演奏してゆきたい。
ピンポイントの正解も正義もなく、方向もない音楽や演奏、、、。
サパティスタのように、その都度「問いかけながら道をいく」ような音楽や演奏、、、。
作曲家の三輪眞弘氏が言うように、音楽及び芸能は「特定の誰かに向けられたもの」ではなく
「その場の空間に向けて奉納するもの」。
生者のための“エンターテインメント”も、死者のための“追悼”もやるつもりはない。
今生きている人間も、必ず一度は死線を越えるのだ。
“生者”は“死者”を追悼するが“死者”の側から見ればひょっとしたら、現世でこれからも様々な
社会的、人間的問題を抱え「生きる痛み」に耐え続けながら(既に自分達が越えた)死線に
恐れおののいている我々に対し、むしろ“あわれみ”の情を持ち、“おくやみ”を言っているかも
しれないのだ。
そういう視点から見れば「あわれ」なのはむしろ“追悼”している我々生者の方ではないか?
“生者”から“死者”へのまなざし、、、。
“死者”から“生者”へのまなざし、、、。
そのあい間をぬって音をつむいでゆきたい。
~韓国人ポペラ・デュエットHUEとの“セェウル号追悼コンサート”の前日に~
すき間を漂う
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死別の翌日
中原中也
生きのこるものはづうづうしく、
死にゆくものはその清純さを漂はせ
物云ひたげな瞳を床ゆかにさまよはすだけで、
親を離れ、兄弟を離れ、
最初から独りであつたもののやうに死んでゆく。
さて、今日はよいお天気です。
街の片側は翳かげり、片側は日射しをうけて、あつたかい
けざやかにもわびしい秋の午前です。
空は昨日までの雨に拭はれて、すがすがしく、
それは海の方まで続いてゐることが分ります。
その空をみながら、また街の中をみながら、
歩いてゆく私はもはや此の世のことを考へず、
さりとて死んでいつたもののことも考へてはゐないのです。
みたばかりの死に茫然ばうぜんとして、
卑怯にも似た感情を抱いて私は歩いてゐたと告白せねばなりません。
(青空文庫より)
話題の主旨とはずれているような気もしますが、死者を送るときの感覚は、彼の言葉によく似ています。
生者と死者は表裏一対でありながら、その背中を感じることはとても難しい。
ただ、残された人の「痛み」というものが、何かですこしでも、その一瞬でも埋まるのであれば、
意味があるのだろうと、そう思います。
海に消えてた若い命たちに、国を超え、哀悼の意を表します。
Hongouさま
主旨とずれているどころか、まさにこの中也の詩のような感覚の中に居ります。ありがとうございました。
(小さく)近い視点と(大きく)遠い視点、、、
「生者の奢り」と「死者の奢り」、、、
それらを自在に行き来するやわらかさ、しなやかさをもちたいです。