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美しいはずの日本人(その1)

このブログにも何度かご登場戴いている東京在住のギタリスト鈴木大介氏に、先日久方ぶりの
メールをした。(ちなみに来月一日福岡県八女市にていっしょにコンサートの予定。特別ゲスト
は谷川俊太郎さん!!)
いつも簡潔な彼のメールだが、こう結んであった。
「~これからキース。途中でかえらないといいなー」
そうか、キース・ジャレットがソロ公演で来日中だったか!(鈴木氏はキースの大ファンで来日
公演は昔から仕事とカブらない限り、欠かさず観に行っているのである)
しかし最後の一言がわからない。これはなんだ?
そのままネットで調べたところ今年のキースの来日公演はある事件をきっかけに、さわると火傷
しそうなぐらい過熱している事を知った、、、。
 
 
 
五月三日(土)の大阪公演に関する記事。
 
来日中の米国の世界的なジャズ・ピアニストのキース・ジャレットさんが、3日夜の大阪市北区のフェスティバルホールであったソロコンサートで、演奏を数回にわたり断続的に中断してステージから退場した
あっけらかんと開放的な“コホン”“ゴホ”と言う咳があちこちから音響の良いフェスティバルホールに響き渡りました。キースは何度も演奏を中断
ライブ録音も兼ねていたが、ジャレットさんは演奏中の聴衆の咳やかけ声に“集中力を欠いた”と話している
2ステージ目のキースは更に神経質になっていたのか、困る事を表現しようとしたのか、咳だけでは無く、彼が登場したとたんに聞こえた指笛の「ピーーー!!」と言う音に、“ああ、ダメだ”と言うようなジェスチャーをして舞台袖に戻ります
コンサート後本当にたくさんの人が事務所に詰めかけていました。
中には“こんなに失礼なコンサートはないで!”と怒っている人も居ました

(NAVERまとめより抜粋)
 
 
キース・ジャレットはマイルス・デイヴィスや武満徹からも絶賛された、音楽シーンが誇る現代
最高のピアニストのひとりである。私は知らなかったのだが、2005年の来日公演の時にも
同様の事があったらしい。以下はその時のキースからお客様に対する発言。
 
こうやって演奏するのは、大変ハードな仕事だけれど、静かにしていることは難しいことではないでしょう?皆さん、どうかWesternize(西洋化)しないで下さい。日本には昔から、瞑想(Meditation)という伝統があります。アメリカには伝統がありません
 
 
今回のキースのとった行動に対する(まるで友達みたいな言い方だな、、、)私個人の考えを
ここに述べるのは今回のブログ記事の目的ではない。
キースのいう「日本のWesternize(西洋化)」という事について、かねてから気になっていた
のでここで考えてみたいのである。
政治や産業の話ではない。日本人の“感情表現”についてである。
 
 
昭和から平成に時代が移る頃から、音楽の世界でもスポーツの世界でも外国人のような振舞い方
が「垢抜けていて良し」とされる風潮になった(この“風潮”というものがくせ者で、「この時
誰々がこう発言し、こう行動してこうなった」みたいなはっきりとした証拠を後世に残さない
ものなのだが、そのわりに世の動きを牛耳っていたりもする、、、)。
私が最初にそれをはっきりと感じたのは、サッカーJリーグの試合の模様をニュースで初めて
見たときのことであった。ゴールを決め,ひざまずいてガッツポーズをとる日本人選手の振る舞
いというか歓喜の姿は、外国人選手を真似しているようでどうしても忘れられないほどの違和感
があった。
感情をおもてに出さないのがいいと言い切るつもりは無い。
ただ“板についていない”不自然さをそのとき感じたのである。
 
 
 
感情表現の話とは別だが、Westernize(西洋化)ということをクラシック音楽の場合で考えて
みよう。
クラシック音楽はいうまでもなく「西洋の文化」であるから、どうしたって西洋の影響を受けざ
るを得ないが、ある程度影響を受けたら今度は「日本人としてのクラシック音楽」を世界に発信
して返すということが自然なことだし、「西洋の文化」もそれを待っているはずだ(すぐれた
日本の作曲家達は現にそういうことを実践してきた)。
 
 
 
ふたたび感情表現(というか表出)の話に戻る。
ネット上で感情をぶつけ合ったり、怒ったり、コンサート会場の客席で(外国人のように)
熱狂したり、ということが日本人は本来出来ないというか苦手な民族だった筈だ。それにコンプ
レックスをもったり、いだかせたり、という発言が一時期横行していたが、もしその方が自然な
ことであるなら、無理な感情表出はしない方がいいんじゃないか。
不自然に西洋化してしまった感情表出を、日本的な部分に再度光を当てつつ見直し、世界に発信
できるぐらいのものにならないと、本当の意味で「西洋文化の影響を受けきった事」にはならな
いんじゃなかろうか。中途半端な影響の現れは美しくはない。
 
 
「美しくない日本人達」
の振る舞いを見ていると、つくづくそう思う。
 
(つづく)
 

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“美しいはずの日本人(その1)” への2件のフィードバック

  1. S.Hongou より:

    あまり色んなジャンルの音楽を聞かないので、よく知らない人です。(すいません!)
    ジャズや色んな音楽を愛する友人に、先生のブログを読んでいただきました。その方の感想は、
    「仰るとおりですねぇ。身についていない西洋化には違和感です。そして、西洋のクラッシックを日本人が演奏し昇華し西洋に返す。
    で、私は感じるのです・・・逆もしかり、西洋人の”禅”に対するイメージもいかがなものか、と。”禅”をはき違えている西洋人の多いこと・・・。でも、ジョン・ケージは”禅”を西洋人の中で昇華し日本にお返しくださった、とも・・・。」
    いびつな「西洋化」は自分も感じます。そうして、何の根拠もない、「日本サイコ―」の風潮。この国は、矮小になってきているのかもしれません。

    • ryuji より:

      真のインターナショナルになるためには、まず自分達のナショナルをしっかりと受けとめる必要があると思います。
      (考え方の違う)よそのナショナルを肯定し受け入れる余裕をもてるほどに、自分達のことをしっかりとみつめる必要があるでしょうね。

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