このさい極論してしまおう。
今の時代には前時代的な意味での「巨匠」は存在しない。
別な言い方をすれば、巨匠といった「権威」を必要としない時代に、いつの間にか世の中が
変化してしまった。
このことには一長一短があって、このたびは「短」のほうについて話をしている。
私自身は権威というものが嫌いでこれまで活動を続けてきたし、おそらくこれからも嫌いで
あり続けると思う。
ただ危惧されるのは「権威あるもの」から権威を抜きさった時(つまり裸眼でみた時)、
「そこに残る価値」があり、それまで否定してしまっていないか、、、ということである。
今の時代、ヨーロッパでもアメリカでも日本でも人気のある先生達はみなフレンドリーである。
合理的な奏法、微に入り細にわたる説明、まるでやさしい兄貴のようにプロ志望の若者達に
接する。楽器についても長期間のツアーに耐えるべく、手に優しい楽器を使う。手に負担を
強いる「名器」は使わない。それを見ている生徒達も自然そうなってゆく、、、。
演奏するレパートリーと使用楽器との関係も見逃せない。
名器でタルレガやリョベート、セゴヴィアのレパートリーを演奏していると、それら巨匠たちの
演奏法に対する敬意が自然と湧いてくる。それらの奏法に対し、楽器のほうから返事をして
くれるのが感じとれるのである。名器を使っていると、巨匠たちの愛奏した「近代レパート
リー」に自然目が向くようになる。いっぽうで透明感のある現代曲やフォルクローレなどの
民族音楽は、逆に名器では表現するのが難しく感じるときがある。
つまり「近代ギターレパートリー」「名器を使った巨匠たちの演奏法」は言ってみればドロドロ
の油絵のようなものである。顔を近づけて見ると、絵の具のかたまりがゴテゴテと浮き出て
見えるような生々しさをもっている。
“名器による巨匠の奏法”が世の中のすべてを表現出来るわけではもちろん無い。
ただ私の個人的な演奏体験から確信していることは、世の中のギタリスト(フォーク、エレキ、
民族音楽系ギタリスト)たちに対して、われわれをクラシックギタリストたらしめているのは、
名器演奏による近代ギター・レパートリーを過去に体験したかどうかが大きなポイントのような
気がするのである。
すなわちポンセやカステルヌーヴォ=テデスコ、ロドリゴ、タルレガやバリオスの小品、
レヒーノやプジョールのレパートリーを巨匠たちの愛奏した名器で“体験”する事、、、。
これらの大切さをいささか時代に逆行しながらも、次の世代に伝えてゆきたいと思っている。
(おわり)
名器よ、どこへゆく、、、。(その2)
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先日は、Sor作品44でお世話になりありがとうございました。その後も作品44を練習会や発表会で引き続き演奏しております。また機会がありましたら、ご指導のほどよろしくお願いいたします。
名器よ、どこへゆく、、、拝読いたしました。もやっとしたものが整理できた気がしました。
細かい経緯は省きますが、28年ほど前に来朝したドイツの著名な製作家さんのギターを試奏した直後、偶然に世界的コレクターさんとお会いしました。そのドイツのギターの話を興奮気味に伝えると、ニコニコしながらこれを弾いてみなさいと、いわゆる名器といわれているギターを試奏する機会を与えて頂きました。驚いたのは、ギターがこういう風に弾きなさいと導いてくれる感じがしたことで、コレクターさんにその旨を言うと、頷きながら、そうでしょ最初はこんなギターで練習すればいいんですよと言われました。ちょっとそれは一愛好家では無理だとは思いましたが、大変貴重な経験になりましたし、私のつたないレベルではありますが、このブログで先生が仰っておられることがわかるような気がしました。
HSPTさま
先日は大阪でのギター講習会の折、素敵な演奏をおきかせ下さり有難うございました。
(たとえ所有しなくても)名器に触れる機会があると、その体験が身体に
残るのでその後自分の楽器との対話がより豊かになるような気がします。
わたしより若い世代が名器に触れることなく、リョベート、セゴヴィア、
レヒーノ、プジョールなどの奏法に対する興味を、急速に失っている
現状を見ていてやはりさびしい気がします。
(逆に「骨董趣味」のような世界に陥るのも避けたいと思いますが、、、。)
わたしに出来る事は、非力ながらも「演奏の現場」で実際の音を通じて、
そのことの素晴らしさや価値をみなさまにお伝えすることしかございま
せん。今後とも研鑽を積んでゆきたいとおもいます。
またぜひお会いできる日を楽しみにしております。
コメントありがとうございました。