ある古楽奏者が私に言った。
「J.S.バッハはバロックの作曲家としてすごく特殊な存在。」
うん、あなたほど実感は出来てないが、多分そうだという想像はつく・・・。
「ギタリストはバロックというとすぐにバッハを弾きたがるが、当時の標準的な作曲家の作品に触れないとバッハの特殊性は見えてこない。」
なるほど、たしかにそうであろう。
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「J.S.バッハはすごい」と巷ではよく言われるのだが、バッハのなにがすごいのか?これを説明できる人は少ない。以前リュート奏者の今村通泰氏曰く「J.S.バッハのなにがすごいのか?ひとつに転調技術がある。普通の作曲家ではとても行けない遠くの調まで飛び、あちこち飛び回りながらもどってくる技も自由自在。そこがバッハの凄さのひとつ。」
ひとつの曲の中で、当時最も遠くまで旅をすることが出来、帰ってくる方法も鮮やか・・・その職人技法が凄い、ということらしい。
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だが冷静に考えてみると、世の中の多くのひとから愛され、あるいは頻繁にとりあげられるものは、平凡なものではなくその時代時代における《特殊なもの》かもしれない。
例えばバッハをビートルズに置き換えて話すことも出来る。あれだけ多くのひとから愛され、時代の象徴的存在になっているが、その作曲やサウンドに関しては当時かなり特殊だと言える(ちなみに私の個人的好みを言うとビートルズは好きでない、、、笑)。
クラシックギターの世界だとどうなるか?この場合のバッハを、A.セゴヴィアに置き換えてみるとよい。あれだけ特殊な演奏をする人を、世界中の多くのひとが愛し、追いかけた。
時代の中で一つのスタンダードとなり、象徴的な存在となったものを見ると、それらは《時代の標準(王道)的なもの》ではなく、いずれも《特殊なもの》である。フラメンコにおけるパコ・デ・ルシア然り。ジャズにおけるM.デイヴィス然り。
60~70年代当時のB級C級ロックをたくさんたくさん聴くと、ビートルズの特殊性がより分かる、というのは確かにそうかもしれない。だが意識的にそういう聴き方をするというのは「ビートルズが偉大であり理解すべき対象」という前提が聞き手の方にある場合であり、それはかえって《聞いて感じる自由》をせばめていることになるのかもしれない。
2024.04.15.
松下先生へ
J.S.Bachの技法から入ってセゴビアを通りビートルズへ移行させて、スタンダードは特殊だと位置付けるところ、面白く拝読しました。
わたくしもビートルズが大好きという訳ではないけれど、特にmull of Kintyreはポールらしい技法ですよね。クラシック畑から眺める青い空を、今後も時代がスタンダードの特殊性を作り上げていくのだと思いました。
村田 陽子さま
ああ、あのバグパイプが出てきて最後はヘイジュードばりの大団円・・・というところでフェードアウトしちゃうあれですね(笑)
ビートルズの特殊性がより分かる、というのは確かにそうかもしれない。だが意識的にそういう聴き方をするというのは「ビートルズが偉大であり理解すべき対象」という前提が聞き手の方にある場合であり、それはかえって《聞いて感じる自由》をせばめていることになるのかもしれない~の思索
○○の特殊性を技巧だけでとらえることは、音楽から聞き手の自由を奪うことになると思います。
聞き手は時代を超え、型を破り、作品の本質をえぐり取る作業を追及しつつ、いつも感覚の新鮮さと心底の感動を求め味わうものです。
音楽を技巧分析で終わらせることは、有名三ツ星レストランのご馳走を目の前に、食べないで帰ってくるようなものではないかしら。ましてや、職人技で評価するとは、全く的外れ❗
そうですね。
いつもコメントありがとうございます。
『燃えよドラゴン』の「考えるな、感じろ」はこの年齢になると、益々大切に思えます。