唐人町ギター教室では、楽譜が読めない初心者の方からプロを目指している上級者まで、現役プロミュージシャンが丁寧に指導致します

Blog

Don’t think ! Feeeeeeel !

 

ブルース・リー『燃えよドラゴン』名台詞のひとつである。

映画の冒頭、少林寺においてリーが弟子の少年に稽古をつける場面。少年にひとつふたつ助言を与え、うまくいった時「どんな感じがした?」と問いかけるリー。「え~っと・・・」考え込む少年のアタマをすかさずハタき、リー師匠曰く「考えるな!かんじるんだ!」。

その後も少年のアタマをことあるごとにハタき、まさにハラスメントの嵐。講師陣にハラスメント講習が行なわれる昨今の音大では、リー先生の就職はまず無理だろう。人を殺すシーンはOKでもこのシーンは5年後にカットされる可能性も実際あるのではないか・・・。

もちろん状況や場面が異なれば、”考える”ということは非常に大切なことだと思う。<思索を重ね、理解を深める時間>と、<身体を使い、実践に臨む時間>。リー師匠がおっしゃってるのは後者のほうであり、敵(この場合、師匠は敵)と向き合っている時間は常に臨戦態勢であり、実践の時だという教えも含んでいる。

====================

むかし少林寺の修行時代、福田師匠がおっしゃってた。

~あのな、ハンバーグ屋になりたい人間が、「よし他店の味を研究するぞ」と言って、よその店に入りハンバーグ注文するやんか。出てきたハンバーグを食べて「ああ、おいしかった」で店を出てきたら、そいつはハンバーグ屋になれんのや。もちろんただのお客として行く人はそれでもええで。でもプロになりたい人間は「注文してどのくらいのタイミングで出てきたか」「スタッフの接客はどうだ?」「盛り付けは?」「ネタのつなぎに何を使ってる?」「ソースのレシピは?」そういったことをちゃんと観察せんとプロにはなれんのや・・・~

===================

リー師匠に比べると饒舌この上ない福田師匠であった。つまりこちらは「Don’t feel ! thiiiiiiink !」のケース、つまり<思索を重ね、理解を深める時間>。

これらふたつの側面を大事にするひとを「あのひとは矛盾している」「前回と言ってることが違う」と非難するのは”スジ違い”というか、最近の私はむしろ【矛盾大好きにんげん】を目指しているので、非難されたところで痛くもかゆくもない。

ただその上で、近頃は<思索の時間>にもっともっと感覚を持ち込めないか、を試みている。これに関してはこの道の名師範、小倉の池田師匠に師事することをおすすめする。ハラスメントも心配ないし。

 

 

2024.04.30.

 

カテゴリー:

“Don’t think ! Feeeeeeel !” への5件のフィードバック

  1. おはようございます。
    ときどき読んでます👌
    私の師匠 岩渕龍太郎せんせいは少林寺そのものでしたね。。
    効率としてはものすごくわるいけど、今の音大や若い人には必要な事でしょう。
    技術として習ったのは二つ
    ①肘を上げましょよ(江戸の遠眼鏡っておっしゃってましたね)
    ②移弦の方法

    それ以外は感じること、盗むことでした。

    • 松下隆二 より:

      荒田 和豊さま
       
      確かに昔の先生ほど「感じること、盗むこと」でしたね。
      自立してサバイバルの世界を生き抜くためには、師がたべもの(知識や情報)を与えるだけでは不充分で、たべものの確保を”自力で”学びとれ、という愛ある思いやりが、その中に当然のように含まれていました。
      邦楽の伝統的なおしえかたとして、「弟子は師に対し質問してはいけない」というのがあったそうですが、一見理不尽のようでいて実は理にかなっているところが多分にある、と思います。
       
      ところで「江戸の遠眼鏡」って、よく御殿様が天守閣のうえからやってる、アレですかね?それはおもしろくてわかりやすいです。

  2. 村田陽子 より:

    松下先生へ
    近頃は<思索の時間>にもっともっと感覚を持ち込めないか、を試みている……とは、どのようなものなのでしょうか⁉️ おっと、“弟子は師匠に質問をしてはならぬ”があった時代のこと。私自身も、どうしてよいかわからず悩んだものです。今思えば、ハタかれ、またハタかれの時期は、ハタかれた分だけ成長した自分がいたように思うから摩訶不思議摩訶不思議不思議❗

    • 松下隆二 より:

      村田 陽子さま
       
      言葉にまとめる、ということは、本来感覚的なはずのものを言葉のいれものに入れることで、結果的に時間や空間から引き離し孤立させているのではなかろうか。
      感覚という不確かなものをあえて言語化せず、不確かなままにすることで、時間や空間と切り離すことなく共存させることができるのではないかな・・・と思う次第です。
      ひとに伝えるより前に、まず自分が【活きた体験】として感じること。その感覚をひとに伝える時、言語を駆使することになりますが、そこで「駆使し過ぎないこと」は、常に念頭に置いておきたいです。感じる余白を残しておきたい。
      その”余白”によって理解にズレ(誤解)が起こりやすいですが、むしろそのズレがひとのコミュニケーションを豊かにしているともいえるわけで、最近は誤解とか矛盾も歓迎しています。
       
      未熟な為、随分言語を費やしてしまいましたが(笑)

      • 村田陽子 より:

        わたくしなぞは、言語が多すぎるとかえってややこしい方に考えてしまい、余白どころではありません。でも、未熟なためやはり、いつも余計な説明めいた表現になってしまっています。回りくどくならないことを心がけるのが、精一杯。
        編集者がいるわけではないブログでは、松下語があってしかるべし…想像的余白こそ、コミュニケーションの醍醐味では❔
        これでも私は、いつか晴れわたった青空のような文章が書きたいと思っているんですから、世話ないですよね。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です