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灰野敬二の世界

 
灰野敬二は本来すべての人がからだの中に持っていて、かつ眠らせていなければならないものを
身代わりとして体現化している存在のように私には思えてくるのである。
 
 
以前トランぺッターの渡辺隆雄さんからうかがった話にこういうものがあった。
渡辺氏と組んで活動していたパンデイロ奏者の故小澤敏也氏は、いわゆる”フリー・ミュー
ジック”の演奏スタイルによるアプローチが苦手だった。
ある日のセッションで フリー・ミュージック演奏の最中、小澤氏がいきなりリズムパターン
を叩き出した。
「リズムを刻むんじゃない!」
周りのメンバーが咎めたところ、逆ギレした小澤氏が一言。
「なにやってもいいから”フリー”じゃねえのかよ!!」
 
 
私が思うに小澤氏の言ってることの方が正論だ(笑)。
口では”フリー”と言いながら、実際にはフリー・ミュージック的なアプローチというものは
既にスタイル化してしまっている。それは本当の意味において”フリー”ではない。
だがもし本当の自由を手にしてしまったら、自由というものの大きさを持て余し、あるいは
押し潰されてしまうかもしれない。ほどほどの制約、ほどほどの自由くらいが人間じつは心地
よいはずである。
 
 
バンド活動をしていた二十歳頃だったと思う。
そのころ活動の拠点にしていた福岡市西新のライヴハウス”JA-JA”に、アングラ界のカリスマ
灰野敬二率いる”不失者”が来るというので、メンバーと一緒に観に行った。
決して広くはないスペースでのトリオ演奏、、、ギターをかき鳴らし、雄叫びを上げ、のたうち
回る、、、。当時の私にはその魅力がサッパリ分からず、そのまま時が過ぎた。
 
 
最近になって You Tube で久しぶりに灰野氏の音に触れた。
そして、ここ近年のライヴ映像を観て正直おどろいた。
約三十年前のあの頃と、音に対するアプローチが全く変わっていなかったことに、、、。
彼のアプローチがこんなに長い年月変わらず続いていることに率直に感動した。
これだけの年月、ここに居られるという事は、信じられるなにかが無いと絶対に無理である。
 
https://youtu.be/t3D9GcetJxk
 
その昔フリーに首を突っ込んでいた頃、自分と灰野氏のアプローチの差や違いが正直分からな
かった。何故にあちらはカリスマなんだ???
 
 
かつてマイルス・デイヴィスは自叙伝のなかでこう言い放った。
「オレにとっては、音楽と人生はスタイルがすべてだ」
そして世の中の多くの人が(意識的であるにせよ無意識であるにせよ)音楽というものを
スタイルで捉え、スタイルで聴いている。もちろん私自身もそうだ。
彼の出す音をスタイル的に捉えようとするひとは、それを”フリー”と呼ぶのであろうが、
【灰野敬二のうた、およびギター】は「うまい」「へた」などという価値観と関係のない世界を
泳いでいる。”歌唱”ではなく声、”ギター演奏”ではなく弦の音、、、。
つまり鑑賞する音楽というよりは音の素材と向き合う世界と言えるだろう。
 
 
灰野敬二の佇まいを保つには、おそらく”自由”であることと同時に”勇気”も必要になるはずだ。
演奏ではなく発音、、、作品ではなく現象に近い。
彼の音を従来の音楽鑑賞と同じ姿勢で向き合ったが為、はじき返されてしまった人々は、一様に
彼を笑い飛ばし、あるいは口々にののしる。
 

(You Tube に寄せられたコメントを参照のこと、、、)
 
 
絵画でも音楽でも”芸術作品”と呼ばれるものは、本質的に作者や演者の『美意識の表出』という
世界から抜け出せないものが大半である気がするが、彼の音はそれとは非常に遠く離れたところ
にいる。
彼の音は日本的エキゾチズムを売りにしていないにもかかわらず、まぎれもない日本的人間に
よる真のフォークロアのような、地に足の着いた真実の響きをもっている。
 
 
初めのひとことを今一度繰り返させていただきたい。
灰野敬二は本来すべての人がからだの中に持っていて、かつ眠らせていなければならないものを
《身代わりとして体現化している存在》のように私には思えてくるのである。
 
 

(作品的要素の強いものも最後にひとつ)
 
 
2018.4.14.
 

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