木下尊惇さんとの九州ツアーが昨日無事終わり、今日福岡に戻ってきた。
旅を共にしながら、旅の中で木下ご夫妻の生き方、フォルクローレ哲学を今回も学ばせて
頂いた。
旅を通して、あるいはコンサートを通じて出会った皆様と非常に多くの切り口で通じ合える
木下氏を見て、今回の私は、ただただ感嘆するしかなかった。
田んぼ、自然界の動植物、プロ野球(木下氏は筋金入りのカープ・ファン)、食文化(いわゆる
グルメとは違う)、宗教、歴史、政治経済、伝統工芸、ふくしま、フォルクローレ音楽など。
それらのことが広く深い視野で語られる時、本当に多くの人と深いところで共感し合える現場を
今回も数多く目の当たりにした。
そしてそれらのことすべてが、木下氏の音楽、演奏と繋がっているのだ。
なんてこった、、、。
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今から話すことは個人的な感覚である。ミュージシャンを代表して言ってるつもりはないし、
べつに模範だとも思わない。
その日、その時、その場に居てくれる人のために私はギターを持つ。
これは間違いない事実である。
だが顰蹙を買うことを覚悟して敢えて言うと、たとえお金を戴いていたとしても、一旦演奏が
始まると、私は”お客さんのため”には演奏していない。
かと言って”自分のため”という感覚でもない。
”音楽のため”?
これもちょっと感覚的にしっくりこない。
きっと”なにかのため”には演奏していないのだろう。
これはかなり誠実に言ってるつもりである。
お金を戴く、戴かないに関係なく、演奏行為はすすんでゆく。
”難関を次々にクリアしてゆくゲーム”とも違う感覚。
音楽する行為は人類の歴史と共にある。つまりひとがひととして生きるために必要な行為。
職業音楽家、愛好家など関係なく、誰もが「過去」「現在」「未来」と繋がることができる
可能性のある行為。
木下氏とのツアーを終え、このブログを思いつき思いつき書きながら、ふとそんなことが頭を
よぎった。
ジャズピアニストの山下洋輔氏が対談で言っていたが、「異ジャンル間の交流」というのは、
それぞれのジャンルの『はずれもの』同士が、森の中をさまよっている時にバッタリ出会い、
「おっ?お前はあっちの部族か。じゃあ一緒になにかやってみるか?」
という感じで進むことが多いらしい。
つまり異ジャンル間交流をやるのはいわゆる「その道の王道のひとたち」ではなく、あくまで
群れからはなれた「はずれもの」らしい(笑)。
木下氏はけっして「はずれもの」ではなかろうが、私の場合は明らかにそれであることを自覚
している。
評判の悪い(笑)自撮りの「 you tube 動画」も決してスタンダードな演奏を目指していない
し、むしろすすんで脱スタンダードな表現を模索しているところがある。
音楽の成立の多様性。”模範”ではなく”例外”のサンプルを数多く提示することで、むしろ
”模範”というものをぼかしたい。
まさに「はずれもの」の発想かもしれない。
そんなはずれものの私に愛想を尽かすでもなく、いつもやさしくお付き合いしてくださる木下氏
である。
今回のツアー最初の北九州公演の舞台上で、私のことを紹介する時に、
「私は共演者を選ぶときに、フォルクローレ・ミュージシャンかどうかよりも、ひととしての
相性を重視します。私の演奏活動において、もっとも共演の機会が多いミュージシャンは、
ケーナ、シークの名手、菱本幸二さん。そして二番目に多いのがギターの松下さんです!」
光栄でうれしくて涙が出そう、、、。
今回のツアーのなかで最高の思い出である。
2017.8.22.
音楽と演奏と、、、
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我々素人が演奏をするとき、つい、
旨く弾きたい。
間違わずに弾きたい。
綺麗に弾きたい。
それにとらわれていますが、先生のお話を読んだとき、(思えばこのお考えは、昔からお変わりになりませんね)どれだけ作曲家の気持ちに近づけるのか、楽譜の意味を読み取ることができただろうか。
最近はそう思います。
相も変わらずリズム音痴で指は動かず、まだギターをやるおつもりですか、といわれても、その先に観たい景色があるので、しばらくご容赦ください。
先生のソロが聞きたいのであります、時代を超えて、ここに見せてくださる行かせてくださる機会を、どうぞよろしくお願いします。
S.Hongouさま
いつもコメントありがとうございます。
ソロっすか?ありがとうございます。
そういえばホールではもうずいぶん長いことやってないですね。
来年あたり前向きに考えてみます。
>ソロっすか?
などおしゃらず(苦笑 涙目)
渇望している人間もいるのでありますので、どうぞ、よしなに。