いつからであろうか?
レッスンの際、生徒さんのテキストに ” 〇 ” をつけることをやめた。
これは審判のようにジャッジすることが、音楽講師の役割とは思えない、というのがひとつ。
〇をもらうことで「この曲終了」「この曲”とりあえず”終了」「この曲クリア」と、受け止め方は人それぞれだろうが、取り組む課題が変化することが「進化の証」だとは思ってほしくない。その曲や課題を過去のものとしてほしくない。だが、〇をつけるという行為が、生徒さんのそういう受け止め方を助長しているように感じるのである。
それらの曲や題材を、つねに「今の自分が向き合うもの」という思いを維持しつつ進化していってほしいのだが、〇をもらい一区切りつけることによってそのことが阻害される気がする。
何度でもそこに戻ってくる、戻れる自分でいる、という気持ちは大切だと思っている。
学校のように「おわり」「卒業」は音楽には無い。
「〇がないと落ち着かない」というのは、自分の変化や進化の過程をリニアな時間軸でとらえすぎではないか。もしくは子供の頃からあるいは社会から要求されるなかで育まれてしまった承認欲求が原因ではなかろうか。
次に進むための装置あるいは儀式としての〇は、「今と結びつくこと」には必要ない。
という、以上が私個人の感じ方、とらえ方であり、あくまで好みである。
「〇の存在がこの世から消えてしまえばいい」などと思っているわけではない。
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全国的にだいぶ冷え込んできましたね。
10月アタマまで夏って感じだったので、秋がなんと短かったこと・・・
近い将来、四季が三季になっちゃうかもしれない。
でも四季ってやつも「周期を感じさせる」という面に、意外な落とし穴の要素がある。
「また春が来た」「また夏が来る」という一区切り感覚は、ある意味《救い》になる部分もあるが、四季がない国の人々と違って「今と自分とのつながり」を希薄にする部分があるかもしれない。
「また冬が来る」は確かにそうなのだが、 ”2025年の冬” は今しかないとも言える。
2025.12.4.
松下先生 ご無沙汰いたしております。 いつもブログ楽しく、時には考え込みながら読ませて頂いております。
昔、⭕️をいただいていた頃を思い出しました。 時々、⭕️の基準はなんだろうかな? 人によって違うんだろうな、とか、こいつはこれ以上は無理だなとか、反対にこいつ、よくここまでやったなとか。 しかし⭕️をいただくと単純にホットしたのも事実です。 あとで弾いてみると全然ダメなことも多くて、やはり⭕️じゃなかったなー、と自分の練習、研鑽はさておいて妙にガッカリばかりでした(笑) 時々忘れまくったギターを取り出して⭕️のついた楽譜を眺めてはため息です(笑)
また、演奏会に行きます!!
合唱の方は時々フロイデの応援で歌ったり、先日はコンクールで賛助しました。 今月は年末恒例の福岡女学院ヘンデル メサイアで歌います。 長年続いたメサイアも今年が最後らしいですが残念です。 最近整体の調子がイマイチです。 歳とると色々と出ます(笑) いつまで歌えるやらですが、しぶとく続けようと思っているところです。
T.Yoshimotoさま
おひさしぶりですー!
お元気そうでご活躍なによりです。
そうでしたか、Yoshimotoさんの頃は〇付けてましたか(笑)
その時に先に進めるためのカンフル剤としての〇は、生徒さんだけではなく講師のためでもある場合が多いですが、いや、やはり講師のためなんですねー(苦笑)
根本的な解決とどこまで向き合うか、もちろんその時流した方が長い目で見てもよい場面もあり、正解なんてないですね
合唱とご一緒させていただいた経験は、今でも懐かしく思い出します。
からだもこころもなかなかにむずかしいこの頃ですが、音楽と向き合うことは以前と変わらずたのしく、もう少しやってみようかなと思っています。