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議論で絡まれた思い出

 

先月のことである。あるクラシック・ミュージシャンに誘われ、飲みに行った。

( ” えっ!あの松下が酒飲むの? ” とおっしゃる声が聞こえる。ドント・ウォーリー、1杯だけです。)

ちなみに私がジョッキ1杯をチビリチビリ舐めてる間、彼のほうは3杯飲み終え、その時すでに日本酒モードに入っていた。ちなみに私は酒はあまり飲めないが、酒の席そのものはけっして嫌いではない。

酩酊状態に入りかける頃、彼は不意に云った。

「作曲はしないんですか?」

「そうねー。僕の場合ひとの曲を弾いてるだけで結構充たされるから、あまりそこまでやる気はないねー。なんで?」

「いやー、昔ドイツに居た頃、友人の画家にこう言われたことがあるんです。『おまえたちクラシックの音楽家は、他人が作ったものをやっている。おれの活動は、なにもない真っ白なキャンバスの前に立つところから始まるんだ』ってな感じで、、、」

 

議論で優位に立とうとする押しの強いひととは、日頃から出来るだけ同席しないことにしているが、こういう絡み方は、たしかに私も若い時分、された記憶がある。ちなみに相手はドイツ人ではなく、中小企業にお勤めの生徒さんだった。『先生!科学とか経済に比べたら音楽なんて生きていく上で実際なんにも役に立たないじゃないですか?どうですか、先生!』

真っ向からそう言われ、当時20代の私はその40代の生徒さんに何を言っていいのか正直まったくわからず、ただ面食らった覚えがある。今だったらこのように応えるかもしれない。

「そうです、そうです。音楽はなんの役にも立たないし、本来なにかの役に立っちゃいけないものなんですよ。」

 

そもそも【役に立つ】【役に立たない】という基準は、「資本主義社会にとって、、、」という前提がある。そこから「これは役に立つから価値がある」「これは役に立たないから切り捨てるべき」という発想へと向かう。

もちろん音楽行為の結果として「役に立った」ということはありえるのだが、なにか特定の「役に立つ」ことを目的として、なされた音楽行為は、もはや音楽とは呼べない。

そういえば故武満徹氏は、ある対談の中で ” 音楽の政治参加は不可能だ、音楽が政治に参加してしまったら、それはもはや音楽ではなく政治です ” という意味のことを言っていたなあ、、、。

あと「役に立たないから、存在してはいけない」という発想をするひとにとって、音楽や芸術は日常のお飾り以上のものにはならないだろう。資本主義的価値観だけで世の動きを把握することは非常に一面的なことだと、時々意識したほうがよいかもしれない。

 

それはさておき冒頭のミュージシャンである。彼が40過ぎた現在も、そこに引っかかり続けていること自体が、私にとってはなかなかびっくりだった。すなわち「俺たち真っ白なキャンバス」発言についてである。

これに関して現在の私ならば、そのドイツ人画家に対してこう応えるかもしれない。

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真っ白いキャンバスの前に立った自分が、創造におけるまったくの無、即ちゼロの状態だと勘違いしていないか?そのようなことはあり得ないし、あなたも過去に観てきた絵画や日常から様々なエッセンスを吸収している以上、それらの過去によって生かされている身。「自分がオリジナルである」と言い切ってしまいたい気持ちは分からないでもないが、それは幻想にすぎず、思い上がりではないか?

 

あなたの理屈を、例えば映画に当てはめて考えると、原作者である小説家が最もクリエイティブで、それを脚本化するひと、監督するひと、俳優として演じるひと、そしてその他のスタッフたちはクリエイティブな仕事ではないということになる。心底そう思っているのか?

 

別な音楽の例で考えよう。ジャズはクラシックと違い、音符を使って演奏行為をしない。コードとスケールによるアドリブが中心だが、その場合、音符の代わりとして ” 事前に彼らに与えられてるもの ” とは、過去の先人たちの演奏、すなわち「このコード進行に対してマイルスがこうアプローチした」「パーカーがこうやった」ということであり、そこからするとアドリブといえども全く【無からの創造】とは言えない。

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クラシック演奏は《あらかじめ書いてある台本に対し、俳優としてどう演じるか》ということに近い。ジャズや絵画同様クリエイティブなものだが、「クラシックはやることが決まっていてがんじがらめである」というイメージが、他ジャンルの人達からは依然として持たれている。クリエイティブであることのポイントが少し違う、というだけで、、、。

絵画にしろ、クラシックにしろ、どの世界にしろ、自分がゼロの地点に立っていると勘違いするのではなく、現在の自分をつくっている要素に対し、感謝の念をもつことが大切な気がする。でも、こんな言い方すると結局、なんか平凡な感じになっちゃうのね(笑)。

 

2023.06.12.

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