唐人町ギター教室では、楽譜が読めない初心者の方からプロを目指している上級者まで、現役プロミュージシャンが丁寧に指導致します

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目を閉じれば闇、目を開いても闇

 

ビル取り壊しの為、住居の立ち退きを命ぜられたのが昨年の秋。

そして現在の住居(実家)に越してきたのが今年の3月。

以来、ガレージ横の密閉されたひと部屋を”自分のスペース”として陣取り、現在そこで教室も行なっている。

当初は窓が無く外の光がまったく入ってこないその空間を、なんとなく憂鬱に感じていたが、一ヶ月前のある日、ふとあることに気が付いた。「この部屋って日中でも締め切って電気消したら真っ暗になるんじゃないか?」

やってみると果たしてその通りだった。だが次第に目が慣れてくると、換気扇の小さいランプ、パソコン機器の小さいランプなどが煌々と点いているのが気になってくる。それらをすべて消すといよいよ本当の真っ暗闇になった。10分経ち20分経ち、目が慣れてきても闇の濃さは全く変わらない。本物の真っ暗闇であることを確認した私は、ギターを手に取り弾いてみた。これは面白い。(自慢してもしょうがないが)これだけの暗闇はなかなか手に入れることができないんじゃなかろうか。

だが大切なのは、この暗闇そのものよりも、この状態で演奏する感覚のほうだ。なにしろ目を閉じても闇、目を開いても全く同じ闇、、、。

一人で体験するのはあまりにもったいない。だがスペースが狭くたくさんの人数に声をかけることも出来ない。やむなく非公式非公開のあそび体験として、4名の生徒さんにご協力頂き、さらにプロフェッショナルのゲストとして、現在ご活躍の松本富有樹先生をお招きし、本日行なってみた。

ご参加くださった皆様それぞれが感じたことはあるはずだし、敢えてそれをその場で”言葉(脳の知)”に変換させるのも今回は避けた、というか強要しなかった。

だから以下のことは僕が感じたことであり、べつに正解でも何でもない。

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<見る>という行為は、視覚という感覚だけが働いているかというと、そうではない。

においや温度、そのとき聞こえるもの、、、そう言ったすべてを総動員しながら「からだで見ている」はずである。

<味わう>という行為も、同様に味覚だけが機能しているわけではない。見えるものや温度、におい、、、やはりすべてを総動員しながら「からだで味わっている」はずである。

<聞く>という行為は聴覚のみに頼った感覚だろうか?聴覚のみに頼った聞き方も出来るはずだが、それは音を<ある情報>として受け取るだけの、”偏った聞き方”になってしまう。

すくなくとも「音楽を聞く」という行為は、温度や視覚、におい、、、そういったものを総動員しつつ「からだで感じながら聞いている」はずだ。

そこに意識が入り込み、瞬間瞬間を分断し、孤立させる。脳が機能のトップに据え置かれ、管制塔のように体の各部に指示を出し、ロボットのように身体各部を支配し、動かしてるかのようなイメージは、西欧によって作られた。だが脳とはあきらかに独立した知を、身体は本来的に所有しており、ひとつの感覚機能だけが独立して作動するような単純なものではない、というのが東洋的な捉え方としてはある。

真っ暗闇の中で、楽譜はもちろん、自分の指、楽器、弦の位置、フィンガーボード、目の前にいる人々、自分の両足が踏みしめてるはずの床、、、これらは全く見えない。

ひとの感覚のひとつである視覚が完全に封じられたとき、何に基づいて演奏を進めてゆけばいいのか、、、本日の勇気ある4人の参加者は、文字通り手探り耳探りしながら、あらゆる感覚を総動員して演奏を進めていった。そして演奏を終えた後、全員がこれまで気づいてなかった感覚についてなにかを感じた。もちろんそれは、みんなそれぞれのものであり、ここに書き記すことは出来ない。出来ないが強いて言えば「これまでも感じていた”あるもの”に対し、あらためて芽生えた信頼」とでも言えるだろうか。

この体験を共有してくださった4人の生徒さんに感謝。

そして真っ暗闇の中で、大聖堂全楽章すばらしい演奏を聞かせてくださった松本先生に感謝。

 

2022.11.23.

 

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