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リュートとギター

 
先月、福岡市内の某会場で、ふたりのギタリストによるコンサートを聴いた。
東京でご活躍の熊谷俊之さん(36)と、福岡を拠点に活動を始めた松本富有樹さん(30)
おふたりそれぞれソロとデュオによる構成だが、プログラムの大半をバロック作品が占めていた
ことが、ギターのコンサートとしては特筆に値するものだった。
 
 
30代のおふたりが奏でる音は、透明な清潔感があり、特に松本氏に関しては「リュートの
ような軽い感触で」モダンギターを鳴らすひとが出てきたんだなあ、、、と衝撃を受けた。
私にとってそれは、モダンギターの鳴らし方として、まったくの新感覚だったのだ。
一方の熊谷氏は、モダン的な鳴らし方と古楽的な鳴らし方の両方を、ある程度自在に行き来
できる”柔軟性”をお持ちのかたのようだった。よりモダンギターの世界に立脚してあるという
(私の勝手な)イメージだ。
 
 
あの日以来、考えている。
なぜ彼らはヨーロッパにおいて、素晴らしい古楽指導者のもと研鑽を積み、今回のプログラムで
”古楽に対する高次元の教養と理解”を示しながらも、モダンギターを手にしているのか?
 
 
実際ギタリストとして留学し、そのまま古楽器奏者に転向する人はここ数年増えているように
思う。その原因のひとつが、ここ数十年におけるモダン楽器界のアプローチのゆきづまりと、
古楽界の隆盛であることは否定できまい。だがその一方で、”モダン楽器界のゆきづまり”と
いうよりは、モダン楽器奏者のスター達を中心とした《日本クラシック音楽産業》の場に、
活動のすき間を見出せない、ということも大きな要因である気がする。
そういった状況もコロナの影響で今後変化する可能性は大きいが、、、。
 
 
だが私が思うに、ギタリストが”モダンギター”を手にすることの最も大きな意味は
「ギターを愛好するひとたちにかこまれ活動してゆく」
ということであろう。
「いや、自分はちがう」
と思うひともいるかもしれない。だが意図するにしろ、しないにしろ、結果としてはそこに
帰結してゆくのだ。
 
 
そのことを後日、松本氏に話すと
「そうですね、僕は”ギターのひとたち”に、古楽のすばらしさを伝えてゆきたいです」
「そして、その一方で現代音楽もやりたい」
とのことだった。
 
 
さて、今から書くことは私個人の、ものすごい独断と偏見なので無視して戴いて構わない。
暴言であることは百も承知で言う。
私は昔から「リュートの音って、誰が弾いても同じにきこえる、、、」のよ。
それは多分ちゃんと理由があって、古典以降(特にベートーベン以降)の音楽と違い、
リュートとその時代の音楽は「おおやけのことをしゃべっている」音であり、音楽である。
だから当時の音楽そのものにしても、楽器の音色にしても、弾いている人間の”パーソナル”を
反映する必要が本来ない。
それがあってリュートという楽器は、だれが弾いても音色的にはすでに完成されている。
つまり演奏はただ、うまいか、へたいか、、、、もっと詳しく言えば、音楽として高度か
低度か、、、これに尽きるのである(「だから駄目だ」なんて一言も言っていないぞ)。
 
 
一方でギターは、音楽も”パーソナル”を打ち出し始めた時代とリンクしているため、仮にそれが
下手な演奏だったとしても、そこには価値としての”パーソナル”が一応残ることにはなる。
そういった”個性””個人主義”といった感覚の良し悪しは、また別の議論の場が必要になる
だろう。
面白いのは、おおやけ(神への賛美など)のことをしゃべっているリュート時代の音楽の方が、
「なんの(誰の)ために書いている」という目的もしくは宛名が、はっきりしていることであり
個人的感情を吐露するロマンティックな音楽の方が「不特定多数の聴衆にむけて作られて
いることが多い」ことである。それぞれがこういうバランスのとり方になったのは、偶然で
あろうか?
 
 
いずれにせよモダンギターを手にした私たちは、望むと望まざるにかかわらず、
「弾き手のパーソナルが滲み出る楽器」を手にしているのであり、
「ギターを愛好する人々に囲まれつつ」そのひとたちとの人間関係のなかにおいて
音をつむぎ続けることになる。
 
 
2021.4.2.
 

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