”客観”というものは本当に存在するのだろうか?
するとしたら、どんなふうに存在しているのだろう?
決して完全否定しているわけでもないのだが、どうも最近それを実感できないことが自分で
気になるのだ。
自分の子供のころから”ものを見る立ち位置”はゆっくりとゆっくりと移動し続け、47歳の現在、
ひとの世は、ひょっとしたら”それぞれの主観”を自分以外の他者と共有できる範囲のことを、
単に”客観”と呼んでいるだけではないか?つまり実存の世界においては主観がすべてを占めて
いるのではないか?、、、、そのように思えてならない。
この辺のお話は”中世スコラ哲学”や”カントの専門研究家にうかがえば、説明してもらえるの
だろうが、説明が詳しく丁寧になるほど私の脳みそはもつれ、ねじれてきて訳が分からなく
なるのが目にみえる。
私の場合、上記のことが全くの素人考えだという自覚はちゃんとある。
これを客観と呼んでいいものだろうか?いや、ちがう気がするのよね、なんか、、、。
コンサートの感想などたまに拝聴していると、その感想を通じて、本人が《自分の言っている
ことが”自分の主観”だと認識している》ことが伝わってくるものは、たとえマイナスな意見で
あっても、どこかしら爽やかである。
言ってる本人が心の何処かで《私の意見は全体を俯瞰で見た客観的なものであり、他の人の
意見も併せて代弁している》と感じているのが伝わってくると、たとえ誉め言葉であっても
私にとっては爽やかではない。ましてやそれがマイナス意見の場合には、、、(苦笑)。
私は自分の考え、感覚、意見が、自分の中の個人的なものに根差した”非常に主観的なもの”
だという自覚が常にある。あなたはどう?
というわけで、いきなりではあるが、私が最近読んだ本のなかで、現在の私の心にとても響いた
三冊を主観的にご紹介したい。
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『はじけ!鳳仙花~美と生への問い/富山妙子著(筑摩書房)』
1921年神戸生まれの著者は少女時代を満州ハルビンで過ごす。画家を目指す一方で、戦時中の日本統治下にある中国人民の悲惨な生活を目の当たりにしたことが、その後の活動に多大な影響を与えた。筑豊炭鉱、南米移民、インド、ロシア、朝鮮、メキシコ、、、世界中を旅しながら国家権力や富裕層に虐げられたひとびとの中に入り、創作活動を続ける。本書はその生い立ちから80年光州事件あたりまでの時代を描いた自伝的なものであるが、個人的、主観的な話であるからこそ、結果として当時の人々の暮らし、生きざまが生々しく匂ってくるすぐれたドキュメンタリーとなっている。
『宮本常一が見た日本/佐野眞一著(NHK出版)』
宮本常一(1907~1981)は、戦前から高度成長期にかけて日本中の村から村、島から島をくまなく歩き、そこに生きる人々の生活を文章や写真で記録した。その経験と膨大な知識をもとに、孤立し隔絶した島や村で”地域振興策”を説き、多くのひとびとに誇りと勇気を与え続けた。その「経世済民思想」と「宮本学」は血の通ったぬくもりで今でも島国日本をやさしく包み込んでいる。こんなひとがいたんだなあ、、、。
『音楽の聴き方~聴く型と趣味を語る言葉/岡田暁生著(中公新書)』
実はまだ読んでいる途中なのだが、あまりにおもしろいので紹介させて頂く。題名だけ見て拒否反応を示す方もいらっしゃるはずだ。だが内容は権威的押し付けもなければ、いわゆるハウツー本でもない。
~「音楽は言葉を超えている」という決まり文句は、ロマン派が作り出した近代イデオロギーなのだ。(中略)語彙や語りのロジックが増えるほど、人はよりよく聴ける。「音楽を聴く」とは、「音楽の語り方を知ること」でもある。そして音楽を語る語彙は出来るだけ身体に響くものがいい。【本文中より】~
例が非常に具体的でわかりやすく、よくもまぁここまで言葉を自在に使いこなせるものだ。日頃レッスンの折、言葉で伝えることに腐心している同じ内容のことが言葉のプロフェッショナルの手にかかると、なんと爽快!特にクラシック愛好家、専門家にお薦め。
2018.5.8.
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