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個性について(その3)

 
“周りと違う”ということに価値を見出す。確かに私にもそんな時期はあった。
「個性的=特別」という大いなる勘違いの時期、、、。
だが存在しているひとりひとりが違うのは“当たり前”であって、つまりひとりひとりが個性的で
あることも“当たり前”のこと。つまり個性的であることが当たり前だとすると、「自分が個性的
であろうと頑張ること」自体が大変滑稽な事だと気付くのに、私の場合ずいぶん時間が
かかった(建て前や綺麗事でなく、心からの理解に関して、、、)。
 
 
『個性を打ち出したい』?『個性的な仕事をしたい』?
そんなものわざわざ打ち出さなくとも、あなたは既に充分に個性的だ。
大切なのは「個性的であること」よりも「他者の気持ちを分かろうとすること」だと思う。
クラシック音楽においては「作曲家がどう感じてこの音符を書いたか」「作品そのものがどう
弾いて欲しがっているか」を自分の力量で探り続ける事が大切で、たとえそれが実際と違って
いたとしても、「他者に歩み寄ろうとして生まれたもの」には無条件で《謙虚な美しさ》が付加
されるものである。
少なくともクラシック音楽というものは「演奏家が自分の個性を打ち出す」ための道具などでは
決して無い。
 
 
私はジャズは出来ないが、ジャズにおけるすぐれたアドリブ・ソロというのはバンドのサウンド
全体にアンテナを張りつつ、楽曲全体の流れに貢献するものである、ということはリスナーと
しての経験上かろうじて知っている。一見勝手に好きなものを弾いてるかのように見える
アドリブの世界でさえも、他者の存在を意識しているもの、していないものの差は大きい。
 
 
社会の人間関係のなかで自己や他者を掘り下げたものはある種の美しい個性を放つことはあるが
それはあくまで結果にすぎない。「個性の輝き」は生きている上での副産物であって、セルフ・
プロデュースできる類いのものでは本来無い筈である。コントロールされた個性は瞬間刺激と
なることはあっても、その賞味期限はいたって短い。
 
 
現代は昔に比べて「派手な個性」よりも「地味な実力」に多くの人の気持ちが向かっているので
はなかろうか。
インターネット社会が急速に広がったことももちろん要因として大きいが「東京に行って一旗
挙げる」ような時代でなくなったのは確かだ。
今の若い人に派手さはないが地道な努力をコツコツとやってる人はむしろ昔より多い気がする。
東日本大震災による心理変化、政治や社会情勢に対する不安も大きく影響していると思う。
 
 
私が見るに「個性の追求」と「権威への憧憬」このふたつは関係無いようでいて、その先の方で
リンクしていることが多い。
「刺激的で自発的な個性の発露」が弱まったせいで、『つまらない』ととる人もいるだろうし
『健全だ』ととる人もいるだろう。
 
もちろん私のように半々に引き裂かれている人もいないわけではあるまいが、、、。
 
(おわり)
 

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