日ごろの活動を通じて私が接する音楽は、時代も国もスタイルも様々である。
ある時はスペイン音楽、ある時はバロックや古典音楽を弾いていたかと思えば、次の瞬間
には南米の民族音楽を必死で練習している。かと思えば、その翌日には他楽器とのアンサ
ンブル用にギターパートをアレンジし、落ち着いてロマン派、近・現代作品を味わうのも
つかの間、こんどは邦人作品をさらい、休憩がてらロックを聴き、シャンソンの伴奏に
頭を悩ませ、ジャズに憧れながら眠りにつく、、、、、。
これがわたしの日常である。
当然であるが、時折ふと我に返ることがある。
「わたしは何なんだろう、、、。」
しかしその問いそのものがすぐにどうでもよくなってしまい、また再び音楽の濁流に
身を投じるのである。
そのどちらが夢で、どちらが現実かは分からないが、、、、、。
ジャンルという分け方はあまり好きではないが、“クラシック以外の畑の人”と共演する
とき、自分の演奏を特徴付けているのがほかならぬ“クラシック”であると気付く(それは
ギター演奏の技術についても、アレンジの仕方においても、、、)。
二十代の頃はクラシックのギター曲の中にも“好き嫌い”があった。近代、現代モノは好き
だけどバロック、古典はあんまり、、、といった感じであった。
しかし今振り返ると、単にそれらの魅力に気付けなかっただけであって、「嫌い」という
レヴェルまでは辿り着けていなかったのが本当のところだ。
現在は、時代や国やスタイル(ジャンル)がわたしの“好き嫌い”に影響するような事は
全く無い。
「今まさに自分が弾こうとしているこの曲を如何に愛する事ができるか」
が最大の関心事となってからは、そういった類の“好き嫌い”というものはどこかへ消し飛
んでしまった。
つまりはその曲を好きになれるかどうかも結局は自分の能力の問題であって、曲に罪は
無い。
しかし“好き嫌い”が全くなくなったわけではないのだ。
最近自分にとって“好き嫌い”が生じてしまうのは、
「その曲がどういう意図で作られたか」
「その曲をどういう意図で演奏するのか」
が気になってしまう状況において、である。
「有名なこの曲を演奏すればお客さんは喜ぶはずだ。」
この考え方は半分は正しいかもしれないが、半分は間違っている。
重要なのは(演奏が行われるその場で)演奏家とお客が音楽を通じて“共鳴”するかどうか
であって、それは知っている曲であろうが未知の曲であろうが関係は無い。
その場に居るほとんどの人が知らない曲でありながらも、素晴らしい演奏が繰り広げられ
る事で、感動的で濃密な時間を体験したことのある人は決して少なくないはずだ。
有名な曲をやることによってコンサートの成功が保証されるはずはない。
自分の演奏の説得力に自信の無いミュージシャンほど「有名曲」に頼ろうとする。
それはミュージシャンとして怠惰ではないか。
「有名曲」が多少でも効果を発揮するのは、(主催者や演奏家が)お客にコンサートの
宣伝をする時と、ミュージシャンが“その曲が有名であること”に頼る事無く、その音楽に
没頭できた時のような気がする。
音楽以外の目的のために作られた曲は嫌いなものが多い。
みんなの意識を統一させる目的で音楽が使われる場面も好きではない。
学校のための「校歌」
野球団のための「応援歌」
商品を売るため、癒しのため、復興支援のため、、、。
「・・・・のために作られた音楽」を演奏するときには、ことのほか慎重に接する。
音楽以外の要素をすべて削り落としてもなお、“音楽”として価値があるような状態にもっ
てゆくことが、それを演奏するミュージシャンの務めだと思っている。
2013.3.19
音楽のための音楽(好き嫌いについて)
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まったくもって
同感です。
なんですか、伊藤さん、唐突な登場に面食らったじゃないですか! なーんて。
いやうれしいっす。お元気ですか?
ホームページの「ギャラリー」をクリックしていただいたところに昔の写真使わせてもらっています。
良かったら見てください。
伊藤さんやw ご無沙汰してます♪ 覗きに来ましたw
hiyoshiさん、おひさしぶりです。ゲームとドラムやってますか?
tomiyamaさんにもよろしくお伝えください。