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『松下流アナリーゼ』の周りで

 
 
”経験”とはサティが言うように「麻痺のひとつのかたち、柔軟性の反対」なのだろうか
ぼくはこの言葉を7割がた信じつづけて久しい
 
 
『~の周りで』という連載シリーズを経験を織り交ぜつつ時々書いているが、タイトルに関して
手軽につけた割には、ぼくの音楽への向かい方を的確にあらわしていて、「うまくつけたもん
だな」と自分でも思う。
つまりは、ある木を描くときに、木そのものを描くことにとらわれず、木の周辺、たとえば
”こちら側の角度から見たらこういう印象”とか、
”その木のまわりにはどういう草が生えている”とか、
”その付近の風当たり、日当たり”とか、、、
を感じることによって、その木の周辺の印象や存在をふくめ、ぼんやりと感じること。
それは木そのものを精密に描写するよりも、結果として”木そのもの”により近づける気がする
のだ。
 
 
そのことと同様に”松下流アナリーゼ”は、結果その曲の肝心なところには少しも触れることが
できていない。いずれも周辺の些末なことばかりとりあげているのだが、そのことで浮かび
あがる”ぼんやりとしたもの”の方に、現在のぼくは興味がある。
 
 
言葉は思考するための道具であり、その機能によって”感覚的なこと”をつかまえようとするが、
現実というものは複雑であり多層的だ。
言葉で表現するということは、ある意味”ポップ化”であり、言葉をたくさん並べるほど現実は
数ミリ単位で逃げてゆく。ポップ化は「わかりやすく伝える」ことが目的であり、それで
「現実を伝える」ことはできない。
ぼくの場合、そう割り切ってポップ化したり断言したり、、、。
 
 
つまるところ、ぼくのブログが断言調なのは、決して自分の言葉を信じているからではなく、
あくまで伝えるためのポップ化を演じている、ということ。
だからぼくの言葉をもっとも正当に信じていて、かつ信じていないのはたぶんぼくであるだろう
と思う(笑)。
 
 
そんなぼくの言葉に、ひとはそれぞれちがう広がりを持ってくれるし、そうであればうれ
しいな、、、と思いながら、不特定な宛先に向けてこのブログを書き続けている。
 
 
《四十代最後の日に》
2021.2.15.
 

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