「おおきいことはいいことだ」という価値観に疑いが無かったのが、昭和という時代の特徴の
ひとつ。
それは”大局が見渡せること”と、”単に大雑把な性格”とが、割と一緒くたに捉えられていた時代
でもあった。
目上からの誉め言葉として「あいつは器が大きい」などという言葉がよく使われていたが、
そういう類の言葉は(自慢ではないが)私は一切かけられたことがない。ひがみ目線から
「え~?あいつはただ単にデリカシーが無いだけじゃないの?」
などと思っていたが、その時の見解はうん十年経った現在も、実はわたしの中で変わっていな
かったりする(執念深いというか、ちいさいというか、、、)。
小は大を兼ねないが、同様に大も小のかわりにはなれないのが実際の世の中だと思う。
今日のブログはそんな私から見た、ちいさなちいさな世界、、、。
大きなことよりも小さなことを大事にする方が、どうも私の性分には合っているようである。
たとえば自分のコンサートでないのに、大ホールに行くと気分が落ち着かないなど(苦笑)。
ホールのステージ上では「自分の実力以上に堂々と振舞わなければ見栄えがしない」のが
なんとも煩わしい気分である。
私の場合、言い換えれば「器(うつわ)が小さい」ということであろうが、そのことに対し
別に卑下してもいないし、恥じらいも感じない。
地方に居ながらにして世界中の地方と繋がれるこんにち、メジャーが急速に機能しなくなって
きた、というのが平成という時代を振り返った時に残る”ひとつの印象”というか現象である。
【世界のトップレヴェル】なるブランドがゆっくりと意味をなさなくなってきている。
それらの価値観は、もちろんすぐに消えたり、別のなにかにすり替わるというものでもない。
巨大なものは死ぬのにも時間を要する。わたしが死んだ後もおそらくそれは死に続けているに
違いない。
そしてそれは地方だから見えやすいことであって、大都市東京に住んでいる場合は、よほど
敏感な人間、もしくは地方と頻繁に行き来がある人間でないと、それを感じ取ることは容易で
ないであろう。
東京で活動しているミュージシャンと話をしていると、自分達こそが時代の流れを洗練された形
で吸収、発信し、文化面で地方を牽引していっているという東京優位の感覚、すなわち
”昭和の図式”がいまだ有効だと信じているひとの多いことにびっくりさせられる。
真剣に取り組んでいる素晴らしいひとも(人口に比例して)いることはいるが、そうでない
人達もそういった気分だけはしっかり共有しているのが、一地方の人間として見たとき
片腹痛い。
権力や権威と結びつかないところで、いかに潰されず「ちいさいことを大切に」やり続けて
いくか。
そのほうが来たるべき時代の流れと合っている、、、とまでは言わないが(笑)。
思いっきり我田引水したところで、本日のブログ、、、
「退却!」
2018.12.8.
おおきい、ちいさい、、、
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