唐人町ギター教室では、楽譜が読めない初心者の方からプロを目指している上級者まで、現役プロミュージシャンが丁寧に指導致します

Blog

天才について

 
【初めにお断りしておきますが、今回の話は「音楽および演奏における感動」という事柄とは
一切関係ありません】
 
 
40代も半ばを過ぎてくると、かつて自分が非常に嫌っていた「天才」をいう言葉を、多少の
冷静さをもって見つめることが出来るようになってきた気がする。
 
 
わたしの場合、自分が凡人だということを悟ったのは割と早かったが、「天才」というものの
存在を容認することについては、自分の中で長いこと葛藤や抵抗があった。
巷で「天才」という言葉に触れるたびに、努力というもののむなしさを突き付けられるような
気がしたり、ラクな方に流れたい人が「怠惰の正当化」のために吐く言葉だとしか思えな
かったのだ。
 
 
そもそも何をもって「天才」というのだろう、、、。
「天才」の定義は、、、?
 
 
ただこのような疑問は、本当の天才を目の当たりにしてしまった時には、すべて吹き飛んで
しまうものである。
わたしは長年クラシックギター界を見てきたが、「天才」としか形容しようのないクラシック
ギタリストは、日本人ではじつは三人だけしか知らない。
極言してしまえば、あとの人は(もちろん自分も含めて)皆「凡人」だと思っている。
ただ「凡人」が《たゆまぬ努力》や《好奇心》でもって、素晴らしい演奏、素晴らしい人格に
たどり着いているそのことに、私は深い感動を覚えるのであるが、、、。
 
 
「天才」と「凡人」でもっとも違うと私が思うことのひとつに
『ものごとを成し遂げるスピード』
がある。
もちろん「天才」とはいえ人間である。努力はしているはずだ(そこは絶対に否定はしない)。
ただ、目標を設定し、練習して出来るようになるまでの《試行錯誤の時間》がおそろしく短い
のが「天才」である。
よって目標を次々に設定することが出来たり、「凡人」が踏まなければならないプロセスを
すっ飛ばしたり出来るのである。
つまりイメージしたことをその場ですぐに具現化できる身体能力が「天才」には備わっている。
 
 
なんで今回このようなテーマなのか?
じつは近頃よく考えるのである。
うちの教室に「天才」が習いに来たらどうしよう、、、。
 
 
たぶん「おことわり」することになるだろう、、、。
何故なら私自身が追求しているものは、おそらく「大衆性の中にある素晴らしさ」であり、
「他者の気持ちを理解しようとすること」だからである。
そして「天才」にそういったこと(大衆性や他者など)を要求したり背負わせたりすることが、
どうも「天才」をつぶすことにつながりそうな気がするのである。
その天才が「庶民感覚が知りた~い」といってわが門を叩けば、こちらとしては喜んで伝授する
のだが、果たしてそんなのあり得る?(笑)
 
 
ギターの世界も含め、「クラシック音楽をやる」ということは、訓練によって特殊技能を身に
つけ、それによって「自分の居場所を確保する」という<におい>が昔からあり、それは今も
ぬけない体質である。
日本における音楽教育の水準が、昭和の時代よりはるかに充実してくると同時に、「型から
はみ出た天才」というものが出てきにくい時代になった。
特にクラシック音楽において「天才」が活躍できるのは『ソロ演奏』の場に限られるのである。
アンサンブルの世界では、たとえクラシック音楽でも「天才性」は要求されないのだから。
 
 
わが教室で共に研鑽を積み、現在プロとして活動しているクラシック・ギタリストは四人
いるが、みな私と同じで「凡人」である。でありながらもそれぞれが素晴らしい世界を持って
おり、ひとびとに揉まれながらそれぞれが魅力的な活動を続けていることが「出来の悪い
元師匠」としてはうれしい限りである。
だが、いつの日か「天才」がわが門を叩いたとき、おことわりせずにちゃんと受け皿となれる
よう、これからわが身をどのように鍛えてゆこうか、、、。
 
 
2016.6.20.
 
 

カテゴリー:

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です