「世の中の流れ」というものの実態について、あなたは考えた事があるだろうか?
「一般的には、、、。」
「常識的には、、、。」
などとよく言うが、生まれてこのかた43年(たったばかり!)の間、“一般的な人”などに
かつて出会ったためしがない。いままで出会ったどの人も“一般的”な型から多かれ少なかれ
逸脱しており、そのことが他者に安堵感を与えているに違いない。それを“個性”と呼ぶ人も
いるとは思うが、世に存在する全ての人間が「一般的人間」でないとすれば、“個性”という
言葉にいったいどのくらいの存在意義があるのだろうか?
「一般的なひと」とはきっと“神様”のことなのだ、、、。
しかしそうは言っても日常の会話をスムーズに運ぶ為には、やはり便利な言葉だ。
架空の「一般的なひと」という存在を持ち出す事で、それを前提に話を結論に導き易い。
(しかし何と脆い前提だろう)
音楽や美術、文学にたずさわる人間の大切な社会的役割の一つとして、
「一般的なこと」
「常識的なこと」
に対し、たえず疑問を投げかける、ということがある。
一見小さな事の中にある“大切さ”にスポットが当てられる人間でなければ、本来つとまらない
仕事である。
したがってブログの内容も自然理屈っぽくなる(結局言い訳かい!)。
音楽、美術、文学、演劇、スポーツ、、、そういったものの根底にあるものは「生命力礼讃」
だと私は常々思っている。
世の中の流れがそれに反する動きとなった場合、それらの事に携わっている人間は、
「作品」「演技」「競技」もしくは「ことば」を通じて全力で“NO!”と言うべきである。
それが社会におけるわれわれの役割だと認識しているので、私自身が別に“あまのじゃく”
というわけでも“反社会的”というわけでもない。
一時期作曲家の自筆譜(のコピー)を集めて眺めていた時期がある。
音符の書き方というものは作曲家ひとりひとりによって本当に違うものだ。
バッハ、モーツァルト、ベートーベン、ヴィラ=ロボス、モンポウ、武満、、、。
音符という情報を超えて、そこには生命力がうねっている。またある時は心静かな情感が
横たわっている。
それ自体がアートと呼べるくらい、出版された楽譜より多くのことを私たちに語りかけてくる。
しかし世の中に流布せしめる、という意味では出版譜は便利なものだし、もちろんそれを否定
するつもりもない。私自身それらの恩恵にあずかって生きてきたのだ。さらに言うなら
「自筆譜のコピー」より「自筆譜」のほうが、私たちにより濃厚に語りかけてくるものがあるに
違いないのである。
まっさらに“地ならし”された出版譜の音符から、我々は作曲家がそこに残した「生命力」を
搾り出さなければならない。出版譜からそれが出来なければそれはわれわれの単なる力不足だ。
だが「便利なもの」を通じて何かの世界に入ったひとは、その奥に静かに横たわる
「不便だがすばらしいもの」の存在に気がついて欲しい。
自筆のもつ“うねり”はわたしにそういったことを教えてくれる。
2014.2.21.
出版譜と自筆譜と、、、
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